平尾桂子の研究室

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博士論文との格闘

禁欲生活の始まり

 

アナーバーの夏は美しい。特に冬の寒さが長くて厳しいだけに、町全体を埋めつくす森の緑が目に痛いほどまぶしく映る。緑のトンネルの両端に並ぶ家の庭には花が咲き乱れ、夜になれば蛍が乱舞する。アメリカの中西部はただただ広いばかりで、三時間ハイウェーを走っても景色がまったく変わらない。だから「豊かな自然」はともすればタイクツの代名詞ともなりうるが、大学町のアナーバーは自然が豊かなだけではなく「文化」も豊かでとっても楽しい。毎日どこかでコンサートがあるし、しかもどこに行くにも車で十分。夕食をすませてからちょっと散歩がてらにコンサートなんて、東京だったら青山界隈に住んでいなくちゃできない贅沢が、我々庶民にも手にとどく。「夏のアナーバーは世界一」なんて土地っ子が自慢するけれど、あながちそれもウソではない。ああ、それなのに、私はその「楽しいこと」のすべてから目をそむけている。多分この夏がアメリカで過ごす最後の夏になるであろうはずなのに、来る日も来る日もコンピューターに向かって勉強ばっかり。言ってみれば「受験生状態」。寝ても覚めても博士論文、ご飯を食べても博士論文、お風呂に入っても博士論文。それに加えて家族の世話、食事の支度、洗濯掃除その他もろもろ。大統領選挙もオリンピックもハイライトをニュースで見ればいいほうだ。ああ、もったいない。

 

昨夜は夜中の二時まで勉強した。その前の夜も寝たのは二時。ここ数カ月、一二時前に床についた日は数えるほどだ。

 

「お母さん、ハカセロンブンってなあに?」

 

八歳の麻里恵に聞かれた。

 

「作文のうーんと長いヤツよ」

 

そう、ハカセロンブンっていうのは作文のうーんと長いヤツで、しかも、最初から最後までまじめに読んでくれる人は、論文を審査する四人の教授だけ。世界中でたった四人しか読まない超大作。それがハカセロンブンだ。

 

その超大作の執筆に、年明けからどっぷりつかってきた。こんな辛気くさい作業を毎日続けていれば誰だって飽きがくる。論文を書き終わるのと、書くこととテーマに飽きてイヤになるのと、どちらが先か。時間との勝負でもある。

 

この連載の最初に「博士課程に在学する配偶者をもつストレスは、アル中患者を配偶者にもつストレスに匹敵すると言われている」と書いた。あの原稿を書いた一年前には本人と家族が受けるストレスがどんなものか、まだ「他人事」で本当には分かっていなかったと、今にして思う。今の私の状態はまさにそのアル中患者。体全体に二十センチくらいのオーラがかかっていて、ビリビリとストレスの磁気をまきちらしている。夫と麻里恵にとってはとんだ迷惑だろうなあ。お酒なんか飲まなくてもいいのにアル中になると飲まずにはいられなくなるように、別に勉強なんかしなくていいのに、しなくてはいられない状態。ハカセロンブンは立派な病気だ。

 

この連載を通してアメリカの家族と教育の問題をレポートしてきた。言ってみれば私たちが見聞きする「外」のことを紹介してきたが、今回は「内」の世界、つまり、私たちがここに来たいきさつと、アメリカ家族留学生活の舞台裏をご紹介しよう。

 

MBA(経営学修士)をめざす夫と、社会学の博士号をめざす私が、「いち・にの・さん」で子連れ夫婦留学したのがちょうど四年前。

 

「二年くらいアメリカに留学するっての、どう思う?」

 

ある日突然夫が切り出したこの一言で、私たちの大冒険は始まった。

 

僕の仕事(PRのコンサルティング)のためにもアメリカのビジネスも勉強しておきたい。桂子にとっても博士号は必要だ。麻里恵が小さい(当時二歳半)今が最後のチャンス。一度しかない人生、本当にやりたいことにチャレンジするのもいいじゃないか。

 

——そんなことを、布団を並べた真っ暗な部屋で、夫は熱っぽく話していた。

 

もちろん私は大反対した。

 

「留学するって、一体全体どういうつもり? 生活はどうするの、生活は。留学なんて簡単に言うけれど、アメリカの大学院の勉強がどんなに厳しいものか、あなた知っているの? 麻里ちゃんの教育はどうするの? それに今だって家事は私がほとんどやっているじゃない。二人で大学院生になるなら家事は誰がするの? フィフティー・フィフティーにやるつもりがあるの?
そんなにアメリカに行きたいんなら、一人で行ってちょうだい!」

 

夫が私を説得するのに半年。

 

大学の恩師に二人で相談に行った。正裕がこんな事を言い出したのですが、どう思いますか、と。

 

私たちの話を静かに聞いてくれた先生は、半分ニヤニヤしながらこう言った。

 

「あなたたち、話がまったく逆でしょう。学位が必要なのは正裕君じゃなくて桂子さんのほうだ。正裕君、君はビジネスをやっているのだからどうとでもツブシがきく。桂子さんは大学で教えているのだから、博士号は必要だ。桂子さんがちゃんと博士号をとれるように、正裕君、君が彼女をサポートすべきなのです」その時知ったことなのだが、その先生も若い頃家族を連れてアメリカに留学したそうだ。まだドルが高かった時代なので家を売って学費を工面したという。

 

当時大学で教えていた私にとってこの留学話は、本当に先生の言うとおり、天から降ってわいた千載一遇のチャンスであった。三十過ぎた子連れ女に、アメリカで留学するチャンスがあるなどと、だれが思うだろう。しかもいいだしっぺは夫。晴天の霹靂、棚からボタモチ。

 

それから留学準備に一年。アメリカに来てから四年。そうか、そんなに時間がたっているのかと思うくらい、この数年間を私たちは全速力で駆け抜けてきた。夫婦そろって大学院生という人は、アメリカでは掃いてすてるほどいる。子どもがいて大学院に戻るというケースも多い。だが、私たちのように、子どもがいて夫婦両方がフルタイムの学生というのはアメリカでもめずらしかった。夫婦のどちらかが生活費を稼がないと生活がなりたたない。夫婦両方がフルタイムの大学院生になるというのは、両親そろって受験生になるようなもの。だから、夫が先に学位をとり、安定した収入を得るようになってから妻が勉強を始めるとか、その逆とか、あるいは子どもを作るのを先延ばしにするとか、どちらかがパートタイムの学生になって低空飛行するとか、そうやって、タイミングをずらすことによって、勉強と生活のバランスをとるのが普通だ。私たちが麻里恵を連れて夫婦で一緒にフルタイムの学生になるなんていうのは、今から思えば、知らなかったからこそできた決断である。

 

 

一週間先が見えない毎日

 

「なんでこんなつらいことやっているんだろって、私たち絶対に言うわ」

 

留学前に覚悟していた通り、大学院での授業が始まった直後から「大変なことを始めてしまった」と私たちは痛感した。(痛感したが後悔するヒマはなかった。)なにせ、授業の密度が日本の比ではない。明日までにこれを読んでおくように、とポンと出される宿題が分厚い本一冊だったり、レポート提出、発表、試験が「これでもか!」と後から後からおしよせてくる。一度でも授業を休めば落ちこぼれる。クラスメートも「払った学費のモトはとるぞ」みたいに真剣だ。Aが四点、Bが三点、Cが二点で換算される成績が、一学期で平均して3.0を切ると直ちに放校になる。事実、一学期目が終わったとき、何人かが学校をクビになって出ていった。予習、復習、レポート作成、発表準備で明け暮れる月曜日から金曜日。すべてが一週間単位で回り、その先のことなど考える余裕はない。勉強部屋に夫と私は二つ机を向かいあって机を並べ、大体二時まで勉強する。平均睡眠時間は四時間。ここで寝たらもう明日はないという、睡魔との戦い。試験週間になると大学の図書館は二十四時間オープンの厳戒態勢にはいり、私たちも、レポート提出まで「あと何日」ではなく「あと何時間」という危ない橋を何度も渡った。

 

博士号をもらうまでのプロセスはゲームのすごろくによく似ている。振り出しは大学院への入学、「あがり」は博士号の取得。その間にいくつかハードルがしかけてあって、その一つ一つをクリアしなくてはいけない。ハードルは大きく分けて五つ。まず最初はコースワークと呼ばれる期間で授業を履修して所定の単位をとること。二つ目のハードルは修士論文を仕上げてその審査に通ること。三つ目の関門は資格試験。それが終わると四つ目のハードルの研究計画書の提出とその審査、そして最後が論文執筆とその審査。

 

修士号を持っている場合は審査だけ受けてバイパスすることもできるし、他の大学でとった単位を認めてもらうこともできる。この場合は「二つススメ」。ゲームの最中に本人や家族が病気になったり、離婚したり、試験に落ちたり、あるいは学費が続かなくなったり、そういう時には「一回休み」とか「三つ戻れ」という具合。

 

夫の方はもう少しルールが簡単で、MBAを取得するために必要なのはコースワークのみ。だが、一学期に三科目とってヒーヒー言う授業をMBAでは平均六つもとらされていた。だから二人が一緒に学校に通った最初の二年間は、勉強の大変さでは夫の方が格段に上だった。

 

一週間先が見えない毎日なんて、こんりんざい二度とやりたくはないが、今から思うとこの最初の二年間は留学生活の中で最も充実していた時期でもある。どちらがコケてもすべてがオジャンになる。夫婦二人が同じくらい貧乏で、同じくらいハードな生活。日本を発つ前に約束した通り、家事は完璧にフィフティー・フィフティーだった。

 

「洗ったお皿の数は僕のほうが多い」

 

夫は今でも自慢する。

 

危機を乗り越えて

 

私たちの留学生活の最大の危機は、私が二つ目の資格試験を受ける直前にやってきた。よりによってあと三週間で資格試験というときに麻里恵が肺炎になったのだ。ちょっと咳をし始めたと思ったらあれよあれよという間に熱が上がり、あわててかけ込んだお医者さんから「肺炎です」といきなり宣告されてしまった。馬にするようなふとーい注射を二本もお尻にされて、入院こそしなかったものの絶対安静。(アメリカの病院はよほどのことがない限り入院させてくれない。)

 

資格試験とは、専門分野に関する知識量を試されるもので、大学によってやり方はいろいろだが、ノートルダムの場合は「○○について述べよ」といった記述式の問題が一科目につき四つ。それを二日間かけて述べ十六時間、指定された教室でカンヅメになって書かされる。一日目に二問、二日目にあとの二問。出題範囲は身の丈ほどの量の文献。しかも持ち込みは不可。一科目目の試験の時、言葉にハンディーがある私は、昼食の時間がもったいなくて、飲まず食わずぶっとうしで答案を書き続けた。学力以前に体力と気力が勝負のデスマッチだ。資格試験の前には誰でも目が血走ってくる。頭に少しでもショックを与えると覚えたことが脳ミソからこぼれてしまうとばかりに、試験が近づくと皆ソロソロとすり足で歩くようになる。そんな極限状態の中で麻里恵が病気になった。四〇度の熱がなかなか下がらない。苦しそうな息をしながらぐったり眠る麻里恵の枕元で、私はパニックに陥っていた。勉強なんかしてなにになるの。私が書くような論文で世の中が変わるわけではないじゃない。この子を犠牲にしてまでもらう博士号なんかいらない。明日の授業の宿題も、試験勉強も、なにもかもが吹っ飛んでいた。

 

麻里恵の熱が下がり、どうにか様子が落ちつくまでの夫と代わりばんこで看病した十日間。二週間でなんとか保育園に復帰できるまで麻里恵の体調は回復したが、試験まで時間はあまり残っていなかった。

 

指導教授の先生は試験を延期してもよいと言ってくれ、私も気持ちが揺らいでいたが、試験を延期することには夫が強行に反対した。

 

「資格試験は通過ポイントと同じで、受けることに意義があるんだぜ。こういうことは勢いが肝心だよ。どさくさまぎれでもいいから、今やっつけたほうがいいよ」

 

専門知識の量で言えば、資格試験を受けた直後ほどよくモノを知っている時期はないと言われるくらい、基本的には詰め込みがものを言う。詰め込み試験のコツは三つ。インプットとアウトプット。さらに、アウトプット直前の集中力。先延ばしにするほど、前に勉強したことを忘れるし、試験を受けるのがコワくなる。実際に、あれもできていない、これも分かっていないと、どんどん先延ばしにしているうちに五年もたってしまったという人もいる。先延ばしにするほど雑念が増えて集中力がにぶるし、また年もとって記憶力も悪くなる。

 

夫にそう言われて気を取り直し、必死の思いで二つめの試験をなんとかくぐり抜けた。もしもあのとき試験を延期していたら、根性がない私のこと、「子どもを犠牲にして私は何をやっているのか」という雑念が膨らんでドロップアウトしていたかもしれない。

 

勉強と育児の綱渡り

 

麻里恵のことは、この肺炎事件の前も後も、今までの博士スゴロクのゲームを通して、私にとって最大のネックであった。麻里恵に手が回りかねることがかわいそうで、それがいつも気持ちにひっかかっていた。言葉の問題、生活習慣、お友達との関係づくりへの心くばり。異文化に暮らす子どもは親のサポートを普通以上に必要としているのに、それを十分してやれない歯がゆさ、もどかしさ。しかも、私がリサーチのために日本とアメリカを行き来する度に麻里恵も一緒に連れて行かねばならなかったため、国境を越えて何度も学校を転校させた。こうした激しい環境の変化が麻里恵にとって負担にならないはずはない。勉強に行き詰まると必ず麻里恵のことが心配になり、麻里恵のことを心配すると勉強に行き詰まる、恐ろしい悪循環。

 

子どもにとって何よりも大切なのは安定した環境だ。引っ越しをしたり、学校を転校して、大好きな先生や仲良しのお友達から引き離されることが、子どもにとってどれだけにつらいことか。それが分かっていながら、仕方がなかったとはいえ、私たちがやりたいことをやるために麻里恵に大きな犠牲を強いたことは否定できない。

 

資格試験の直前に麻里恵が肺炎になったことを、ある日本人の奥さん(専業主婦)にうっかり話したら、

 

「そうよねえ。子どもって母親が他のことに気をとられていると必ず病気するのよねえ」と、同情とも、あわれみとも、忠告ともつかないようなコメントが返ってきた。

 

この一言を聞いたのが、試験を終わった後で本当によかった。「後の祭り」ならぬ、「祭りの後」。

 

ただ一つ救いだったのは、麻里恵が比較的に適応力のある子どもだったことだ。二年前に日本に一時帰国し、日本の小学校に初めて行ったときにも、初日から「親友」を見つけてくれたし、ノートルダムからアナーバーに移った時にも学校から帰るなり、「もうお友達できたよ」と息を弾ませて報告してくれた。お友達を作るコツを尋ねると、麻里恵はこともなげに言ってのけた。

 

「私がお友達が欲しいなあと思ったら、他の子も私とお友達になりたいと思っているもん」

 

子どもの異文化サバイバルは仲の良い友達ができるかどうかにかかっている。自分が友達が欲しいと思ったら、周りの子どもも自分と友達になりたいと思っているはずだという麻里恵の考え方は、四歳から異文化に放り込まれ、英語と格闘しながら身につけた彼女なりのサバイバル技術だろう。このノーテンキで彼女は親の不出来をよくカバーし、行く先々で友達を作り、私たちの人間関係を豊かなものにしてくれた。この四年間で知り合った友人は多いが、家族ぐるみで深くつき合える人の大半は麻里恵がいたからこそ出会えた人たちだ。

 

さて、四年前に始まった私たちの留学生活も、いよいよ終盤にさしかかった。アメリカの会計事務所で税務コンサルタントとして私の生活を支えてくれた夫はこの秋、一足先に日本に帰り、PRのコンサルタントとして復帰する。アメリカで学んだことが活かせるポストが用意され新たな出発だ。私は論文があるのでもうしばらく麻里恵とアメリカに残るが、ゲームが終了する(であろう)来年の春には日本に帰ることになっている。向こう数カ月の受験生状態の苦しさは、最後に残された「火の輪くぐり」だ。がんばるしかない。

 

私たちがアメリカで学んだことは多い。夫も私も「一生かけてこれをやりたい」というライフワークが見つかった時に、きちんとしたトレーニングを受ける機会を得たことは、どれだけ感謝しても足りない希有のチャンスだったと、心から思う。ベトナム戦争、オイルショックの中で、貧富の格差と人種問題をかかえたアメリカが、社会的にも経済的にも低迷するのを見て、「もはやアメリカから学ぶことはない」と豪語する日本人は多いが、それはやはり間違っていると思う。少なくとも投資に見合った質の高いトレーニングを受けられるという点で、しかもそれを受けるチャンスが年齢に関わらず外国人にも開かれているという点で、アメリカで学べることはまだまだ多い。

 

「学歴偏重主義の是正」というのが日本の文部省あたりのうたい文句だけれど、私たちがアメリカの大学院に身を置いてみて強く感じたことは、アメリカは日本以上に「学歴社会」だということだった。教育が将来への「投資」であるという意味で、そして「学歴」は「資格」であるという意味で、どのような教育をどの機関で受けたかということ、すなわち「学歴」を、アメリカ人は大変重視する。例えば、大学の入学式や卒業式で教授が着用するガウン。俗に博士帽と言われる、ヒラヒラがついた四角い帽子と、講堂の緞帳に使うような分厚い生地のぞろーっとしたガウン、あれは自分が博士号を取った出身校のものを着用する。だから、卒業式などでズラリと並ぶ教授陣がそれぞれ着ているガウンの色で、「○○先生はハーバード出身」とか、「××先生はイエール出身」と一目で分かってしまう。どういう学位をどの大学で取ったのか、それが後々までついて回るということを考えれば、アメリカは立派な学歴社会である。

 

—-お母さんが上手にハカセロンブンを書けますように。

 

麻里恵が「願」をかけて編んでくれたプロミスリングが私の左手首にくくりつけてある。これは、アメリカの子どもの間ではやっている中南米(だと思う)の風習で、色とりどりの刺繍糸を編んだヒモを手首にくくり、それが切れるまでつけていると願いがかなうそうだ。ハカセロンブンがキャリアに結びつくかどうかは、時の運・不運にもよるけれど、乗りかかった船、水平線のはるか向こうにではあるが、ゴールが見えてきた今、どうせなら無事にゲームを終了したい。

 

この連載で書ききれなかったことはたくさんあるが、またいつか他の機会に私たちの触れたアメリカをご紹介する機会があることを祈っている。

 

長い間おつき合いいただき、本当にありがとうございました。

 

「アメリカ家族留学記」(6)『わいふ』Vol. 262 掲載(1996年11月)

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平尾桂子 Keiko Hirao

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