平尾桂子の研究室

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命の値段と家の値段

「この家を買うとき、すごく迷ったの。敷地が広いし、ショッピングセンターも近くて便利なんだけど、場所がぎりぎりのところでM学区に入っているの。すぐ隣のP学区だったら最高なんだけど。」そう話すのはフラン。一昨年インディアナ州ノートルダム郊外に家を買い市内から引っ越してきた。彼女はインディアナ大学で教鞭をとるワーキング・マザーで、銀行員のジョンとの間に十二歳と八歳の子どもがいる。彼女が「広い」と言う土地の広さは、なんと一万二千坪。「あそこまでがウチの敷地」と指さすはるか彼方に隣の豪美邸が見える。ときどき野生の雁が遊びにくるバックヤードは「庭」というよりはまるで「公園」だ。「ウサギ小屋」の国から来た私にしてみれば溜息しかでてこない。周りの家のオーナーはほとんどが医師か弁護士。社会階層から言えば「アッパー・ミドル(中の上)」の人たちだ。フランとジョンにしてみれば、本当はP学区に家を買いたかったのだが、予算と土地の広さを考えると、ここらへんが共働きでがんばってどうにか手が届くぎりぎりのところだったらしい。コミュニティーの「格」やら便利さを考えれば、ボーダーライン上でM学区内にあるということを差し引いても、まあまあ満足できる買い物だったようだ。フランたちが「学区」にこだわるにはそれなりの理由がある。学区のレベルを決めるもの「P学区だったら不動産の評価がいいから、売るときには絶対に二十パーセントは高く売れるんだけれど、M学区だとそういう売却益はあまり期待できないの」だから、土地の広さをとるか、学区のブランドをとるかですごく迷ったという。結果として、M学区で落ちついたわけなのだが、希望的観測としてこんなことを言っていた。「これだけの広さの家を買える人は子どもを私立にやれるだろうから、レベルが低いM学区内にあるということはあまりこだわらないかもしれない。そう期待してココに決めたの」要するに、「学区のレベル」は不動産の評価を左右すると同時に、地域の不動産価格に左右される。世の中なにが不均一といって、アメリカの公立学校のレベルほど不均一なものはない。州によって異なる「アメリカの教育制度」を一言で言うと、「一言では言えない」としか言いようがない。それほどばらつきが大きい。そもそも日本の文部省に相当する連邦レベルの機関がないから、全国共通カリキュラムも指導要綱も存在しない。学校運営の決定権は校長先生に、教科の指導方針の決定権は個々の先生にあり、それを学校区ごとの教育委員会が監督する。そのうえ、公立学校の運営資金は、教師の給料から設備費まで、その地域の固定資産税を主な財源として独立採算性がとられている。もちろん州や連邦からの補助金もあるけれど、それは微々たるもので、大部分が貧困地域への補助に回される。つまり、お金持ちが住むお屋敷街の公立学校と、貧困層が住むスラム地域の公立学校では、同じ公立といっても財政状況がまるで違うということになる。学区の財政状況が違うというのはどういうことか。教師の資質から学校の設備、カリキュラムの充実度など、それらすべて含めた「教育の質」がまったく異なるということだ。「よい学区」では教師に高い給料が払えるから有能な人材を集められるし、コンピューターや図書などの教材もふんだんに買える。すばらしい英才教育プログラムや進歩的な障害児教育ができるのも潤沢な資金があってのことだ。ついでに言うと、「よい学区」の学校には教育熱心な親が多いから、ボランティアのなり手にも事欠かない。クラスマザーとして母親が先生の助手を無償でつとめたり、遠足の引率もペアレントヘルパーが手伝ったりする。これらもすべて「教育の質」の大切な構成要素である。その逆に、「悪い学区」では給料が安いから教師の離職率も高く、校舎はぼろぼろ。それだけならまだしも、クビになった教師が校長をうらんで殺傷沙汰になったとか、教室内で銃を乱射したとか、先生を殺そうとして十二歳の子どもがピストルを学校に持ち込んでいたとか、そういう恐ろしいことが起こったりする。「学校が荒れる」といってもこちらの荒れ方はスケールが違う。フランの住むM学区が地盤沈下を起こしたのも、ここ十年間、お金持ちが雪崩をうって郊外に引っ越したからだ。あとに残ったのは、ペンキがはげた家とペンペン草が生えた庭。不動産価格は下がる一方だ。ちなみに、一軒家に住む中産階級のアメリカ人は、家の維持管理に並々ならぬ熱意を傾ける。「芝刈り」「雪かき」「落ち葉かき」そして「家のペンキ塗り」。これらに嗜癖的ともいえる労力を費やすのも、まかり間違っても自分の家の不動産価値を下げてはならないと思っているからだ。家の美観はコミュニティーの美観に、それは回り回って自分の子どもが受ける「教育の質」と「命の値段」に深く関わってくる。だから、自分の住むコミュニティーのレベルの維持にものすごく気を使う。固定資産税の税率を高く設定して貧困層を排除するのもその手段の一つである。私たちも麻里恵が小学校に上がるとき、学校をどこにするかで大いに迷わされた。友人のアドバイスに従い、校長先生に面会したりオープンハウス(見学会)に参加したり、子どもを通わせている親に意見を求めたりした。そこから分かってきたことは、「人種の多様性」という言葉にはもう一つの隠れた意味があるということだった。「あそこの公立は多様性に富んでいる」と誰かが言う場合、それは微妙なところで「貧困層(主に有色人種)がいる」ということを示唆している。地区によっては在学児童の過半数が英語が分からないことも珍しくない移民の国。建て前では「多様性の大切さ」を説くアメリカ人も、自分の隣人として「多様な」人々が移り住んでくることに、そして自分の子どもが「多様な」クラスメートと机を並べることについては、非常に神経をとがらせる。「本当の幸せはお金では買えない」とよく言われるが、ことアメリカの子どもの教育と福祉を見る限り、まさに地獄の沙汰も金次第。「お金で買えない幸福」より「お金であがなえる不幸」のほうがずっと多いと痛感させられる。お金持ちはよい学区に住めて、高いレベルの教育を子どもに受けさせられる。たとえ地元の公立が気に入らなくても学費を払えば私立に逃げられる。フランも二人の子どもを私立の小学校に通わせているし、将来自分たちの家を買う人もそのような選択をすることを半ば期待している。やっぱり私立へ私たちも、迷った末に、結局麻里恵を私立に通わせることにした。地元公立小学校の「多様性」が理由というよりは、面会した学校の校長先生の口から、在籍している日本人の子どもの悪口を聞いたためである。「ウチの学校にも日本人の子どもは何人かいますよ。ああ、あそこにいるS君、あの子も去年日本からやってきたんですよ。でもねえ、なんというか、とても幼稚な子でね、一年生の授業にとてもついていけないんですよ。あの子なんかは、本当はもう一年キンダーをやったほうがいいんですがねえ」S君は直接私たちが知っている子どもではなかったが、狭い日本人社会のこと、どこでどう伝わるかもしれない。この校長先生はただおしゃべりのお人好しだっただけかもしれないし、私たちへのサービスのつもりでつい口がすべったのかもしれない。しかし、同じ調子でいつ何時ウチの子の悪口も他の日本人に言われるかもしれないという不安はどうしてもぬぐい去ることができず、結局苦しい家計の中から麻里恵を私立に通わせることになった。麻里恵が通うことになった私立小学校は高い学費を徴収するだけのことはあって、絢爛豪華な設備とカリキュラムを誇っていた。「アートのクラスで粘土細工をやっている」と言うので、どんなものかと思えば、うわ薬をかけ、炉で焼き上げた美しい陶器のキリンをもって帰るし、外国語教育も盛んで、スペイン語、フランス語、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語を各学年で必修として習う。夕方スクールバスから降りた麻里恵が紅潮して「たのしかった!」と家に飛び込んでくる様子を見るにつけ、爪に火をともす苦労もむくわれるとよろこんだものだ。ところが、この学校の親からはこんな意見も聞いた。「ウチは高い学費をはらって私立に通わせているのに、公立校を維持するために同じ固定資産税を払わされるのよ。これって不公平だと思わない?」自分の払った固定資産税が(自分とは関係のない)公教育に使われることはおもしろくない。固定資産税はもっと「みんなのため」に使うべきだ。これは、含意として「公教育は貧困層のためにある」と言っているようなものだ。このような考え方が、学区の公立校のレベルを下げ、さらにアメリカの公教育のレベルを全体的に下げる結果となる。ミシガン州のアナーバーに移ったときには少し期待していた。ミシガン州は公教育に力を入れていると定評があるし、大学町のアナーバーの公立は親も教育への関心も高く、まあまあ安心できると聞いていたからだ。日本との行ったり来たりで貯金の底がつき、私たちに麻里恵を私立に行かせるゆとりがなかったこともある。ところが、である。担任の「当たり・はずれ」はどこでもあることだが、アメリカの学校で担任に「はずれる」ととんでもないことになる。はずれた先生麻里恵が通うことになったB小学校では、新学期が始まって二週間くらいしてから父母を対象にした説明会が開かれた。その席上で誰かが「このクラスには何人子どもがいるのですか」と質問をした時、麻里恵の担任の先生は、信じられないことに、この質問に答えられなかった。自分のクラスに子どもが何人いるか把握していなかったのである。それだけではない。クラスの子どもに折り紙を教えてくれと言われて出向いて行けば、前日先生から聞いたクラスの人数と実際の人数が違う。個人面談の席上では、私が、「マリー(麻里恵)はESL(英語補習クラス)にお世話になっていますが、クラスに帰ってきたとき、他の子の勉強についていけているでしょうか」と、聞くと、「ESLに入れることに保護者が同意したのですから、そういうことをお聞きになることはおかしいんじゃないですか」と、とりつくしまもない。「それでは、彼女がESLで教室を抜けている間、他の子どもはどんな勉強をしているのでしょうか」と、私が食い下がれば「補習授業に出るために教室をときどき抜けるのは、なにもお宅のマリーだけじゃない。マリーがいない間に他の子がなにを勉強しているかなんて、私には分からない」と、言う。あげくの果てに、「あなたは私を教師として信用していないのか!」と、頭ごなしにしかられた。確かにその通り。私は彼女をまったく信用していなかった。自分のクラスに何人子どもがいるか分からない教師に全幅の信頼をおけるという親がいたら教えてほしい。まあ、それを言えば喧嘩になるから、その場はなんとか丸く収めたけれど。彼女との出会いが不幸なものになったのは、言葉の問題やらお互いの誤解があったためかもしれない。親からあれこれ質問されることを自分への批判と思って身を堅くしていたのかもしれない。それはともかく、学校が大好きだった麻里恵も、私の不安を察してか「学校に行きたくない」と言い出す始末。他にも、ここでは書ききれないくらい、問題が次々と起こり、アナーバーでの最初の三ヶ月は「まりえの学校問題」が私たちの最大の悩みとなった。さて、日本の学校で担任に「はずれた」場合、どうするか。おおむね「運が悪かった」と少なくとも一年間はガマンするしかないだろう。ところが、相談した友人はほとんどの人が「校長に言って担任を変えてもらうべきだ」と言う。B学校に勤務するバイリンガルチューター(英語が母国語でない子どものカウンセリングもする)も「担任を変えたほうがいい」とアドバイスするし、児童相談所のカウンセラーも、「担任が変わるのは珍しいことではない」と言う。学期半ばで担任を変わるなんて、おそれ多いことと思っていた私たちも、さんざん迷った末に資料を整えて校長先生に談判しに行った。その結果、一週間後に麻里恵は他のクラスに変わることになった。新しい先生の評判はおおむね「並」。親たちの評価は「可もなく不可もなく」というものだったけれど、私たちにしてみれば、最初の先生とのゴタゴタで「学校への期待度」が極端に低くなったせいか、麻里恵がいやがらずに学校に行くというだけで有り難いと思ってしまう。つけ加えておくと、担任変更の可否についても、学区により校長により方針が異なっている。「変更は絶対に受け付けない」と徹底しているところもあれば、イジメなど深刻な問題がある場合に限るとされているところもあるらしい。B小学校の場合、特に今年度は「問題の多い年」らしく、麻里恵が移った先のクラスからもこの三ヶ月で三人もの子どもが他のクラスに移っていった。子どもたちはこのような移動を「引っ越し」と呼んでいる。私たちの経験したことが、アメリカの教育制度の中で、どこらへんに位置するのか、私には分からない。ただ、全体として見た場合、アメリカの公教育、特に初等教育は国際的にあまり自慢できるものではなさそうだ。国際学力テストの結果で見る限り、アメリカの子どもの学力は決して高くはない。ピンからキリまでの幅が広いから平均値をとれば低くなるのは当然だが、トップクラスの子どもの学力ですら、日本や台湾の平均的な子どもの学力に及ばないらしい。こうした調査結果を受けて「教育の危機」がアメリカで叫ばれ始めたのは八十年代。アメリカ政府の委員会や財団が立て続けにレポートを発表し、教育改革論議に火がついた。教育機会の階層格差しかし、この十年間、アメリカ国内の貧富の格差が増大したことで、公立校の地盤沈下がいっそう激しくなったようだ。大統領をはじめ政界や財界のトップがわが子を私立に通わせれば、建て前はどうあれ、公教育に関心が薄れるのも無理はない。一九八〇年にアメリカ、日本、台湾の小学生の学力を比較調査し、アメリカの子どもの学力がいかに劣っているかを『ラーニングギャップ』(邦題『小学生の学力をめぐる国際比較研究』)で発表して大きな議論を巻き起こした教育心理学者のスティーブンソンは、その後の追跡調査の結果から、ここ十年でアメリカと日本・台湾との学力格差はさらに広がったと指摘する。スティーブンソンの研究でおもしろいのは、アメリカや日本・台湾の親が子どもの学力についてどんな考えを持っているかという点だ。日本や台湾の親で「ウチの子はよくできる」と自信を持っているのはごくわずかで、大半の親は「もっとがんばってもらわなくっちゃ」と答えているが、それとは対象的に、アメリカ人の親は大半が「ウチの子はよくできる」と大いばりしている。マスコミで「アメリカの教育の危機」がかなり騒がれたこともあって、アメリカ人の親の中にも「アメリカの教育制度には問題がある」と思う人は増えている。にもかかわらず、わが子の学力にはいたって楽天的だ。つまり、問題があるのは「よその子」であって、「ウチの子」はちゃんと勉強しているというのだ。こうした親の意識を反映してか、アメリカの子どもの大半は「自分は勉強ができる」と答え、三十パーセントの子どもが「算数ではトップクラスにいる」と自負している。アメリカの親や子どもがここまで楽天的でいられる理由について、スチーブンソンは、アメリカでは学区や個々の先生によってカリキュラムがばらばらで、子どもの学力を客観的に判断する機会が少ないためだと指摘する。確かに麻里恵の例をとってみても、クラスを「引っ越す」前と後では教科書も違えば教科の進み具合も遠足の回数も異なっている。しかも、同じクラスの中でも取り組むプロジェクトが個々の子どもによって違う。こんな中では他の子どもと比較する機会は日本に比べると格段に少ない。もう一つ、大半のアメリカ人の親が楽観的でいられる理由として、「日本の子どもの学力は、詰め込み教育でビシバシ仕込んだだけだ」という思いがある。ことあるごとに「日本の学校は年間二百三十日、アメリカは百八十日」が強調され、アメリカの教育は「ゆとりがある」と評される。だが、実際に学校の時間割を詳しく調べてみると、学校での遊び時間は日本の方が格段に多い。日本では子どもが学校で過ごす時間のうち約四分の一近くが放課やクラブ活動など「勉強以外」の活動に当てられている。それに対し、アメリカではまとまった休み時間はランチタイムのみ。アメリカの学校と日本の学校のどこが違うと思うかと聞かれて麻里恵が真っ先にあげたのも「日本では放課がたくさんあってお友達と遊べたけれど、アメリカの学校は勉強ばっかりで遊ぶ時間がない」ということだった。これを聞いたとき、私は目からウロコが落ちるような思いをした。日本の教育は画一的で詰め込み式という見方には、日米両国で根強いものがある。日本は創造性をはぐくむ人間形成に欠けるとか、加熱する塾や受験競争、そしてイジメによる自殺。だが、実際に子どものストレスレベルを調べたスチーブンソンは、不眠症や強迫症などストレスが原因とみられる症状はアメリカの子どもの方に多くみられるというし、統計的にも子どもの自殺率が高いのは、日本ではなくアメリカだという。「自殺だけじゃなく、銃やドラッグで死ぬ確率も考えればアメリカの子どもの方がずっと高い危険にさらされている」教育改革論議は日本でも盛んだ。そのキーワードは「ゆとりある人間教育」と「多様化」。アメリカが「学力増強」にやっきとなるのと対照的だが、どちらの国でも子どもを一人前に教育するのは大変だということには変わりがないようだ。

 

アメリカ家族留学記(3)『わいふ』Vol.259掲載(1996年5月)

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