平尾桂子の研究室

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暴力という名の娯楽

「暴力とは何か。」

 

この問いを聞いて、何を思いますか。

真っ先に頭に浮かぶのは、殴る、蹴るでしょうか。あるいは刃物で斬りつける。

 

でも、不思議なことに、私たちは人が殴り合う姿をみて喜ぶことがあるのです。

え、そんなバカな、と思われるかもしれません。

では、ちょっと想像してみてください。二人の男が殴り合っている姿を。

 

男たちは上半身裸で、二人とも人相が分からないほど顔が腫れ、口から血を流している。とその時、一瞬の隙をついて、一人が相手の顎を下から強烈に殴りあげ、殴られた男は崩れ落ちるように倒れる。そんな彼に周りの人々は熱狂的な声援を送ります。立て!立つんだ!がんばれ!負けるな!・・・。

そこにもう一人の男が駆け寄って数を数え始める。ワン、ツー、スリー・・・。八つ数えたところで、倒れた男がヨロヨロと立ち上がったところで、カーンと鐘が鳴る・・・。

 

なんのことはない、これはボクシングの情景です。

 

殴り合っていた男たちは「ボクサー」と呼ばれ、日々トレーニングに励むアスリート。人と人が殴り合うという、一見たいへん暴力的な行為も、「スポーツ」として成り立つのです。

 

「蹴る」ほうも、例えばテコンドーはどうでしょう。オリンピックの競技種目でもあるこのスポーツ、横蹴り、回し蹴りなど、激しい蹴り合いで競われます。これも暴力だという言う人はいないでしょう。

「刃物で斬りつける」も、その凶器が「メス」で、医師が手術室で行う場合は「医療行為」と見なされます。

このように、ある行為が暴力かどうかを決めるのは、その行為そのものではなく、それが行われる社会的文脈なのです。

言葉一つ文脈が変われば意味が変わるように、ある一つの出来事も、それを取り巻く状況次第で意味が変わります。「殴る・蹴る」が、「スポーツ」に、「刃物で斬りつける」も「医療行為」というように。

 

では、その逆はどうでしょう。

 

歴史を紐解けば、暴力が暴力でなかった事例は無数に存在します。

 

たとえば、古代ローマ帝国時代。巨大なコロシアムで人間同士または猛獣を相手に死ぬまで戦いを強いられた人々がいました。剣闘士と呼ばれた彼らは、多くの場合、戦争捕虜や奴隷だったそうですが、彼らが闘う姿は「見世物」としてローマの人々を熱狂させました。

 

あるいは、アステカの人身御供の神事はどうでしょう。人知を超えた何かのご機嫌を取るために人の命を捧げる儀式は古今東西の歴史に刻まれてきましたが、アステカの場合に特異なのは、人間の新鮮な心臓を捧げねば太陽が昇らなくなると信じられていたことです。そのため、生身の人の胸を切り裂き、動いている心臓を取り出すという、現代では残酷極まりない行為が「神事」として日常的に行われていたのです。太陽が昇るための神事ですから、これは毎日毎日です。毎朝歯磨きするように、人の命が生け贄として捧げられていた。

 

このように、私たちから見ればれっきとした「暴力」が「見世物」に、そして「神事」にすらなり得たことを考えると、暴力を暴力でなくするために社会的文脈がどれほど大きな力をもっているのか、分かっていただけると思います。

 

暴力を暴力でないものに仕立て上げる社会的文脈とは、権力構造に他なりません。コロシアムでの「見世物」を楽しむ人々と猛獣と闘う剣闘士、あるいは新たな日の出に安堵する人々と、そのために命を奪われる生け贄との間には、絶対的な身分の違い、権力格差がありました。彼らは奴隷や捕虜であるという身分ゆえに、見世物の対象とされ、生きたまま心臓をえぐりとられるのが当然だったのです。

身分や出自などによって、殴られて当然、殺されて当然とみなされる仕組み、そのような社会的文脈を、私たちは「差別」と呼んでいます。殴られない権利、殺されない権利、自分が自分らしく生きる権利を、自分では変えられない属性(身分・出自・人種・性別など)によって剥奪されること、これが「差別」だからです。

 

さて、古代ローマやアステカ文明と、なんだかとても遠い世界の話になりましたが、暴力を暴力でないものに仕立てる仕組みは身近なところにもたくさんあります

例えば「愛の鞭」。

これは、愛するがゆえに厳しく叱りつけることですが、私が思い浮かべるのは、熱血教師が「わかるか!俺だってつらいんだ!」と叫びながら生徒を打ちのめすシーンです。教師の生徒に対する優位が絶対的に保証されている場合には、殴られた生徒がいかに不満を抱いていても暴力とはみなされません。教師の絶対的権威が弱まり、生徒の主張が真剣に取り上げられるようになって初めて、「愛の鞭」と呼ばれる教師の生徒に対する身体的な破壊力は「暴力」であるとの意味づけがされるようになりました。

 

さらには「痴話げんか」という名の暴力。

夫婦や恋人など、親密な関係にある人から受ける身体的・精神的苦痛は「ドメスティック・バイオレンス」と呼ばれるようになりました。

 

あるいは「セクシュアル・ハラスメント」。

これも、つい最近まで「社交辞令」とか「挨拶」などとよばれていた暴力です。

逆説的ですが、完璧な差別のもとには暴力は存在しません。なぜなら、誰かが殴られたり殺されたりするのは、彼(彼女)が○○だからなのだと正当化されるからです。暴力が暴力と認識されるためには、まず差別が否定されねばなりません。

「暴力とは何か」という問いの答えを探ることは、<暴力>を<暴力でないもの>に仕立てる仕組み、すなわち<差別>と向き合うことと深くつながっているのです。

 

初出『家庭の友』2013年3月号

 

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