ワーキング・マザーの子どもたち
「おばちゃん、タイクツでしょう?」
「マリー(麻里恵)が学校に行っている間、おばちゃんはどうしているの?おうちに一人でいるの?」
五歳のリディアにそう聞かれた時、私はどんな顔をしていたのだろう。
「そうよ。おうちに一人でいるのよ」
私が答えると、リディアはすましてこう言った。
「どうしてお仕事しないの?マリーが学校に行っている間、おうちにいてもしょうがないじゃない。タイクツでしょ?」
リディアの言い方があまりにもオマセだったので、リディアの母親のインディと私は思わず顔を見合わせて大笑いしてしまった。
「そうねえ、テレビのソープオペラ(メロドラマ)も飽きてきたし、暇でしょうがないから仕事でもしようかしら」
私がのってみせると、インディがつっこむ。
「そうよ、働くところならいくらでもあるわ。あなた、ずっと家にいたらブクブク太っちゃうわよ」
「でもねえ、ボランティアとか主人の身の回りの世話とか、けっこう大変なのよ」と私。
「なに言っているの。そんなことじゃ世の中に置いてきぼりにされておバカさんになるわ。少しは自分の人生ってものも考えなくちゃ」
こんなバカな冗談で母親同士が勝手に盛り上がるそばで当のリディアがきょとんとしているので、インディーが涙をふきながら説明してくれた。
「マリーのママは家でお仕事をしているの。本をたくさん読んで勉強するのがおばちゃんの仕事なのよ」
三十八歳のインディーはダンスの先生。ご主人のケビンは舞台照明の専門家。舞台の上で結ばれた、いわゆるワーキングペアレンツだ。彼らとは、リディアのお姉さんのナタリーと麻里恵が保育園で一緒だった縁で知り合った。私たちがアナーバーに引っ越してからも、彼らがうちに泊まりにきたり、クリスマスは私たちが彼らの家に遊びにいったりと、家族ぐるみで仲良くしてもらっている。
リディアの質問があまりにもおかしかったのでこの一件のあとしばらくの間、インディーからは「最近どう?仕事を探す気になった?」という電子メールのメッセージが入り、電話では「イキガイ」、「ワタシの人生」と言っては、笑い転げていた。
専業主婦は少数派
リディアの一言でおもしろかったのは、「母親というのは仕事をしているものだ」と思いこんでいたことである。
母親の八割近くが何らかの仕事につき、子どもが六歳以下でも六割が働いているお国柄。ワーキングマザーが「どうして仕事をしているのか」と世間から糾弾されるより、専業主婦が「なぜ仕事をしないのか」と聞かれることの方が絶対に多い。
以前紹介した佐織さんは専業主婦だけど、こんなことを言っていた。
「いいお母さんやっているだけじゃバカにされるのよ。どうして働かないんだって」
リディアの質問と同じだ。良き母親かくあるべしという正論も「数の力」が作り出す。
もちろん、リディアが「お母さんは働いているものだ」と思いこむ背景には、彼女が共働きの家庭で育ったということもあるのだが、少なくとも「お母さんが外で働いている子はカワイソウ」という意識はまったくない。それどころか、家にずっといる専業主婦の生活は「タイクツなもの」だと思っている。
働く母親の子どもはカワイソウか。つまり母親が外で働くと子どもには悪い影響があるのだろうか。
実はこの問題はここ二十年ほど、アメリカの社会学会の大きなテーマとして議論されてきた。様々な調査・実験が行われ、おびただしい数の論文が発表され、賛否両論、出尽くした観がある。
この問題でむずかしいのは、母親の就労の影響それ自体が、社会階層や子どもの年齢、婚姻関係や労働時間、そして保育の質などと複雑に絡みあっていて、まだまだ本当のことはよく分かっていないというのが現状だ。ただ一つだけ、長年の議論の末にたどりついた結論ではっきりしていることは、母親が働いていることそれ自体が子どもにとって悪い影響があると明言できる根拠はどこにも存在しない、ということだ。
つまり問題は、「母親が働いているかどうか」、ではなく、保育の質や地域の環境、親の教育程度、そして収入などの方が、子どもの精神的および社会的発育に強い影響をおよぼしているという、そういう見解が主流になってきた。だから、最近では、「ワーキングマザーの子どもはカワイソウか」ということはあまり議論もされない。その代わり、「共働きの子育てをサポートするにはどうしたらいいか」という方面に議論の焦点が移ってきている。
そもそも、日本同様、アメリカでも妻が働きに出る理由の第一は家計を支えるためである。働くのは食べるため。特にここ十年、男性の実質賃金が低下しているアメリカでは、夫の稼ぎだけでは人並みな暮らしを維持できなくなってきている。
ローンで家を買い、子どもの教育費を捻出し、たまの外食や旅行といったささやかなレジャー、それに老後の蓄え。---そういう生活を下支えするのは妻の収入なのである。
先回も書いたけれど、アメリカの子どもの福祉と教育には、悲しいほどお金の力がモノを言う。乳幼児死亡率から、子どもの学業成績、自殺率、ドラッグ・犯罪、高校中退率、はてはティーンで妊娠する確率や大人になってから離婚する確率まで、ありとあらゆる「子どもの福祉」の指標に「収入」と「人種」が最も強い影響を及ぼしている。
ここ十年でアメリカの収入格差が広がったが、それは、単にお金持ちがますます富み、ビンボー人がよりビンボーになったという以上に、中産階級が共働きに移行することでかろうじてミドルクラスの生活レベルを維持し、弁護士や医者などのアッパーミドルがダブルで高収入を得てさらに裕福になっていったという背景がある。
つまり、家計収入は、稼ぎ手が何人いるか、そして、稼ぎのいい妻がいるかどうかによって大きく左右される。一馬力の家族(特にシングルマザー)の子どもと二馬力のプロフェッショナルな両親を持つ子では、同じ「自由・平等」の国に住みながら、その「人生のチャンス」には雲泥の違いがあるということだ。
多分、日本でも、ある程度は同じことが言えるのだろう。だが、貧富の格差が命の値段の格差としてはっきり見えてしまうアメリカでは、それがより鮮明に示される。そんなわけで、共働きの子はカワイソウなんてことを言うと、すぐさま反論されてしまうわけだ。
アメリカに来てから三年半。大学院家族寮というゲットーに住んでいたこともあるが、「お母さんが勉強にかまけてて子どもがカワイソウ」なんて言われたことはただの一度もない。日本ではことあるごとに、「保育園の子はカワイソウ」、「共働きの子は寂しい思いをしている」、「今はよくても、いつかきっとしっぺ返しがくる」と、脅迫ともとれる世間の冷たい目を感じていたのとは大違いである。
こう書くと、仕事も育児もバリバリこなし、生き生き働くアメリカのワーキングマザーというイメージが浮かび上がってくるだろう。特に、日本のマスコミで紹介されるのは、「フレックスタイムでゆとりある生活」や「すばらしい職場保育園」だったり、「子連れ出勤風景」だったり、「積極的に家事に参加する夫」だったりするからなおさらだ。
だが実際には、アメリカのワーキングマザーの生活は日本同様、いやそれ以上に過酷なものがある。
ストレスいっぱいのワーキングマザー
ホックシールドの『セカンドシフト』が翻訳されて日本でも話題になったからご存じの方も多いだろうが、アメリカでも家事分業が完璧に進んだとはお世辞にも言えない。確かに家事・育児に参加する夫は増えてきている。大和男児よりもずっとずっと家事・育児に時間を費やしている。だが、それでもなお、平等にはほど遠く、せいぜいが「参加」で、妻のお手伝い。夫にすべてをまかせて「後顧の憂いなく」仕事に専念できる妻など、アメリカといえども例外中の例外と言ってよい。
子どもが熱を出したといっては、仕事のスケジュールを調整し、近所に高校生がいればベビーシッターにどうかと目星をつけ、クリスマスディナーのメニューに頭を悩ませ、歯医者の予約と予防接種の予約、子どものおけいこ事の送り迎えを誰がするか、いつするか………。こうした育児にかかわる雑事と、それに費やす心理的労働。日本語でも「心労」というけれど、書いているだけで溜息がでてくる。働く母親を対象にした雑誌『ワーキングマザー』の特集テーマをざっと見るだけでも、アメリカでも仕事と育児の綱渡りがいかに大変かが見て取れる。「ストレスのないバケーションの過ごし方」、「罪悪感を感じないですむ十二の方法」、「五分でできるお手軽メニュー大集合」、等など。この雑誌は「ワーキングマザーが働きやすい会社ベスト一〇〇」を毎年発表してきたし、「LollyPop&SourBall」というコラムで、毎回読者から寄せられた体験を元に調査し、「いい職場・悪い職場」を会社の実名入りで記事にしている。まあ、コワイと言えばコワイのだけど、その「悪い職場」の記事を見ていると、セクハラあり、ワーキングマザーいじめあり、妊娠リストラありで、アメリカの職場環境ですらワーキングマザーにとって天国ではないことがよく分かる。
さらに、なによりもアメリカのワーキングマザーを悩ませるのが、子どもの預け先。最貧困層を除いて保育料の補助金が支給されないアメリカは、先進国のなかでも最も公的保育制度が遅れている。アメリカの保育は、少し前に日本で大議論を呼んだ「自由契約方式」、つまり一定の収入を越える家庭の子どもには補助金を出さない代わりに好きな保育園を選べるというやりかたを極端に押し進めたものと言ってよい。
つまり「保育(チャイルド・ケア)」はれっきとしたサービス産業で、弁護士の知識やマッサージ師の技術が市場で売り買いされるように、保育サービスも必要とする人が売ってくれる人から「買う」ものなのだ。税金で負担するものでも社会が保障すべきものでもない。
ワーキングマザーが増えれば需要も当然増える。そこで、託児所、---つまり保育サービスの売り手---は無数に存在する。デイケアと呼ばれるセンター方式、家庭で子どもを預かるファミリーデイケア、自宅に出向くベビーシッターやナニー。もちろんお金を払えばメリーポピンズのような家庭教師を住み込みで雇うことだってできる。
保育市場で売られる製品は機械で作るわけではないので、その品質(保育内容)はそれこそ玉石混淆でピンからキリまで。一応、州の基準というのがあって、それをパスすると「州のライセンスを持っている」ということを看板にできるけれど、その基準も州によって実に様々。例えば乳児の定員を保育者一人につき三人までと定めているところから、なんと十二人までオーケーという州もある。もちろん定評のある保育園は入園希望者も殺到し、順番待ちということだって少なくない。
先回ご紹介したフランも、娘のローレンが小さいころ、希望していた保育園で午前の部しか空きがなく、しかたなく空きができるまでの二年間、二つの保育園を掛け持ちした。八時半に最初の保育園に預けてお昼に迎えに行き、その足でもう一つの保育園に送っていく。
「あの頃は本当につらかったわ。一日中車で走り回っていた。なによりも、ローレンにはかわいそうだった。だって、やっとママが迎えにきてくれたと思ったらまたすぐバイバイなんですものね。一日に二回もお母さんにバイバイしなくちゃいけなかったのよ」
彼女の場合はまだ恵まれている。一日二回送り迎えができる時間の余裕と二つの保育園をかけもちできる収入があったから。
ダブルシフトの保育戦略
私たちもアメリカに来たとき、万に一つのチャンスでクジに当たり、ノートルダム大学の附属保育園に麻里恵を入れることができたが、そこの保育料は一ヶ月三五〇ドル。月八五〇ドルの助手手当で暮らす大学院生にとっては痛い支出だ。ちなみに、麻里恵の保育料は二二〇ドルのアパート家賃より高く、わが家の家計簿の支出項目のトップだった。私たちも、日本での貯えと円の強みがなければ、とても麻里恵を保育園に預けることはできなかっただろう。
保育料が払えない家庭では、おばあちゃんなど親戚を頼ることになる。そのおばあちゃんとて、働いているケースが多いから、当てにできるとは限らない。
先日、麻里恵が学校から帰ってきてスクールバスが一緒のスティーブと遊ぶ約束をしたという。知らない家に一人で遊びに行かせる訳にはいかないので、スティーブの家に電話をかけると、本人が出てきてパパもママもいないという。
「スティーブ、あなたは一人でおうちにいるの?」
「ううん、イトコのお兄ちゃんがボクのめんどうを見るためにきているの」
「マリーと遊ぶお約束したそうだけど、そのお兄ちゃんとお話させてくれない?」
「いま、お兄ちゃんは部屋でねているの。ママが帰る七時前になったら起きてくるよ」
そんな会話のあと、父親の職場に電話を入れ、結局私たちが迎えに行ってウチで遊ばせるということで了解をとった。
一九九〇年に実施された全国調査では、五歳以下の子どもの四十六パーセントは昼間親といっしょにいるという結果がでていた。約半数近くの乳幼児は昼間家庭で親と一緒にいる。そう言われると、じゃあこの子たちは専業主婦のお母さんと一緒にいるのかと、つい思ってしまう。
ところが、この「親」の中には父親も含まれ、最近ではその数も徐々に増えているという。これは、育児分担が進んだというよりは、失業で家にいる夫が増えたことによる。
さらに、驚くべきことに、アメリカの共働き家庭の実に四分の一が夫か妻のどちらか一方が夜の仕事か不規則なシフトで働いている。そして、そのような働き方を選んだ理由で最も多いのが「子どもの保育」。つまり、夫婦交代で夜と昼に労働時間を分散させることで保育問題を解決しているのだ。
クリスタルのお母さんは三十五歳。ご主人は工場のラインで働く労働者。彼女も同じ工場で夜のシフトについている。曜日によって時間帯は異なるが、夜の七時から朝の七時までか、夜十一時から朝の十一時のどちらか。これを休みなく週七日間。
「最初はキツかったけれど、体が慣れると平気になるものね。夜の仕事は時給もいいし、昼間クリスタルの学校の行事とかに出られるでしょ」こんなことを、ボランティアで出かけた麻里恵の学校で話していると、他のお母さんも話の輪に入ってきた。
「ウチは夫の方が夜出かけているわ。私が夕方帰ってきてから彼の方が出ていくの。顔を会わせるのは一日一時間くらい。夕ごはんを一緒に食べるのが精いっぱいよ」
彼らも、ダブルインカムでやっと生活を支えている。延長保育や夜間保育を頼める託児所は少ないし、しかも保育料は高い。おばあちゃんは当てにはならない。となると、少なくとも子どもの安全を確保するために、親が交代で見るしかない。
昼間他人の子どもの世話をしながら早朝パートに出ているという人からも話を聞いた。
バーバラは五十代前半。大学生と高校生の息子がいて自宅でファミリーデイケアをしている。州のライセンスもとり、常時約十人前後の子どもを預かっている。家庭的な雰囲気のファミリーデイケアとして近所の評判もけっこういい。ところが、数年前に夫が失業してからは、バーバラが朝三時から七時のパートを掛け持ちするようになったという。
「睡眠不足と疲労がたまってどうしようもない。疲れるとイライラしてくるじゃない。子どもたちにもやさしくできないことがあるわ」
いくら州のライセンスを持っているといっても、保育者が早朝に他の仕事で働いているかどうかなんてチェックしようがない。「ライセンス」というのも怪しいものだ。
同じように、いくら親が世話をしているといっても、夜勤明けの母親(あるいは父親)がする育児の質とはどんなものだろうか。どう少なく見積もったって、人間六時間は睡眠が必要だ。子どもにとって、親や親戚と一緒にいるのと保育園とどちらがいいのか、そんな比較も簡単にはできない。
先進諸国の共通課題
ワーキングマザーが増えてきたのは、ここ数十年の世界的な趨勢だ。というよりも、古今東西、女はみんな働き続けてきた。歴史的にみれば、「男は外、女は家庭」という家族の形態は《伝統的》というよりも、産業化に伴う《過渡的》なものと見るべきで、だいたい、男一人の稼ぎで家族全員を養えるほど生産性が高かった社会はない。ただ一つの例外が「古き良き時代」と呼ばれる一九五〇年代のアメリカだろうか。その時だって、すべての母親が専業主婦をしていたわけではなく、多くの労働者階級の妻は生活を支えるために働いていた。
働く場所が農場から工場やオフィスに移り、男が先ず外に出て、続いて女も出ていった。あとに残された子どもや老人をどうするか。これは先進諸国が抱える共通課題でもある。「仕事」と「家庭」に介在するこの難問を完璧に解決した社会は未だにない。アメリカは育児・保育を市場原理に任せる方法を選び、スウェーデンなど北欧社会は国の負担を増やし税金でまかなう方向を選んだ。もちろん、どちらも完璧な解決方法とは言えない。子どもたちの健康と安全と健全な発育を確保し、老人や病人をどうケアしていくか。そのケアに国や社会、企業はどう関わり合っていくべきか。仕事と育児の綱渡りを必死でこなす世のワーキングペアレンツは、未曾有の巨大な社会実験に参加しているようなものである。
ところで、ここまで私は「ワーキングペアレンツ」と複数形で書いてきた。夜と昼に仕事を分散して保育問題を乗り切るにせよ、夫の育児分担を論じるにせよ、「もう一人の親」、つまり夫がいることを想定していたわけだ。だが、実は、ワーキングマザーでも、もう一人の親の助けを当てにできない人たちがいる。シングルマザーたちだ。アメリカの子どもの福祉を考える上で彼女たちのことを避けて通るわけにはいかない。
そんなわけで、次回はシングルマザーのお話をしたいと思う。
「アメリカ家族留学記」(2)『わいふ』Vol. 259 掲載(1996年5月)