身体の値段
私たちの身体の6割以上は水でできている。あとはタンパク質や糖、そして若干のミネラル。それが私たちの“原材料”だ。
元素に分解すれば、酸素、炭素、水素、窒素で98.7%。残りの1.3%はナトリウム、カルシウム、カリウム、塩素、マグネシウム。他にも鉄、亜鉛、マンガン、ニッケル、コバルト、モリブデン、そしてスズや亜鉛など。
神は人を土と塵から創ったと『創世記』に記されている。
本当にその通りで、物質としての私たちは塵(ちり)と芥(あくた)でできている。
そんな話が授業の雑談で話題になった次の週、「人体の物質的価格」なるものが存在することを教えてくれた学生がいた。70kgの体重と仮定して、水素13,633円、炭素70,560円、窒素78円、多く見積もっても5万円以下とのことだった。
「こんなに安いとは驚きました」
その学生は言っていた。
こんな塵芥に命が宿る不思議。大いなる奇跡。
とはいえ、モノとしての身体は値段をつけた瞬間まったく違う意味をおびることになる。私たちの身体はもう少し纏まり(まとまり)のある<パーツ>でできているからだ。
私たちの身体の最小単位は細胞。細胞の上のレベルは器官。胃や肺、心臓、耳、脳、子宮、毛髪や皮膚など。この器官レベルで見ると“モノとしての人体の値段”も違う様相を呈してくる。
オー・ヘンリの小説『賢者の贈り物』には、身体の一部を愛する人のために売る話がでてくる。
貧しい若夫婦デラとジムは互いにクリスマスプレゼントを用意しようとする。ジムは祖父の形見の懐中時計が自慢だが、それに見合う鎖を持っていない。デラは美しい髪が自慢で前から鼈甲の櫛をほしがっていた。
そんな気持ちを互いに知っていた二人は、相手の欲しいものを買うために自分の大切にしているものを売る。デラはジムの懐中時計をつなぐ鎖を買うために自慢の髪を売り、ジムはデラの髪を飾る櫛を買うために大切な懐中時計を売る。貧しい夫婦がお互いを思う気持ちがいっぱいにあふれたこの物語、一つの美談としても有名だ。
この物語を子どもの頃に初めて読んだ時、女の人の髪の毛が売り物になるということに驚いた。
ヴィクトル・ユーゴー作の『レ・ミゼラブル』では、コゼットの母親フォンテーヌが生活に困窮して髪と歯を売る場面がある。美しかったフォンテーヌは前歯を抜いて様相が一変してしまうのだが、これも初めて読んだとき、フォンテーヌの歯を買った人はそれをどう使うのか、とても気になったものだった。
この二つの物語から浮かび上がるのは、身体のパーツの「売買する」ことに関わる社会的な取り決めだ。
髪の毛は売ってもいいけれど、歯を売るのはいかがなものか。
では、他のパーツならどうなのか。たとえば血液。
かつては日本でも血液が売買されていたが、感染症などの問題から法律で禁止されている。一方、病気の治療に欠かせない血液製剤は人間の血液が原料だ。
国内では供給が追いつかず海外からの輸入に頼っている。錠剤になっていれば何も考えなくて済むけれど、原料が血液だと聞いたとたん、「?」という気持ちが生じてくる。その血液がどのように調達されているのか、私たちは、知りたくないし考えたくない。
臓器は売買してはいけない。
それが私たちの社会取り決めだが、海外には(そして日本にも)闇市場が存在し、腎臓、肝臓はもとより体液から繊維、免疫細胞にいたるまで、頭のてっぺんから足の先まで商取引の対象となっている。でも、そのことを私たちは知りたくないし考えたくない。
臓器を売買すべきではない、そんな私たちの取り決めをなぎ倒すように、人間をお金で取引する人身売買が世界中で行われている。
人の密輸、ヒューマン・トラフィッキング(Human Trafficking)とも呼ばれ、その数は、少なくとも2,400万人以上にのぼるという。東京都の人口の約二倍の数の人間が、強制労働、臓器移植、性的搾取を目的に売買されている。
自分が飲む薬の原料をきちんと知らねばならにように、人がモノのよう売り買いされている事実を、私たちはきちんと知っておかねばならない。その上で、何ができるのか、考えねばならない。
『家庭の友』2014年4月号 掲載