働き方改革と生産性

「子どもをつくらない人は生産性がない」

 

国会議員によるこんな発言が大きな波紋を呼んでいる。LGBT(性的マイノリティー)に対する支援は必要ないという文脈でのこの発言に対し、LGBT当事者はもとより与野党から多くの批判が寄せられた。差別的で不見識。お粗末すぎてまともに取り上げる価値が無いという人もいる。その一方で「よくぞ言ってくれた」、「言い方は過激だが正論だ」という擁護の声もある。

 

ところで、この「生産性」とは何を意味するのだろう。

 

二つの可能性が考えられる。

 

一つには、労働者一人あたりどれだけの成果を出したのかという「労働生産性」を指すというもの。通常はこちらの意味で使われる。

 

5人がかりで1日100個缶詰を作っていた町工場で、一人の人間だけで1日100個作れるようになること。これを「生産性が向上した」と言う。さらに、この工場でその一人の労働者が一日100個ではなく200個の缶詰を作れるようになれば、そちらの方が生産性がなお高い。

 

ところで、このたった一人の工員が「子どもが生まれるので産休をとりたい」と言ったらどうなるだろう。あるいは「パートナーが出産するので育休をとりたい」といったらどうだろう。

 

そうですか、では工場を休みましょう、というわけにはいかない。工場を稼働し続けるために誰か代理の働き手を雇うことになるだろう。

 

こう考えてくると、冒頭の発言はまったく間違っているということが分かる。

 

子どもをつくらない人ではなく、子どもをつくる人こそ生産性が低いのだ。

 

だからこそ、結婚・出産で職場を離れる医師(=生産性が低い医師)を増やさないようにと、医学部の入学試験で女子受験生を差別してきたのではなかったか。

 

「生産性」の二つ目の意味。それは、子どもをつくることそれ自体を指していたとも考えられる。生産を担う労働力を生産するのだ。

 

少子化対策として、子どもをたくさん産んだ女性を表彰しようとか、子どもがいない世帯には増税すべきだということが、真面目に議論されていることを鑑みれば、その可能性は十分ある。

 

であるとすれば、子どもは「生産物」だということになる。かつて子どもだった大人も、発言した議員自身もみな生産物というわけだ。

 

人の価値を「生産性」で測ることと人を「生産物(モノ)」とみなすこと。両者は同じ所でつながっている。

 

少子高齢化と人口減少にともなう労働力不足が深刻化する中、「働き方改革」が進行中だ。

 

モノやサービスの生産と人の再生産、その折り合いをつける知恵が、今真剣に求められている。

 

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