職場の交差点
研究室が17階建てのビルの15階にあるので、エレベーターでいろいろな人とすれ違う。長い時で3分、短い時で25秒。フロアによって部署が異なる人々の動線が重なる時間である。
「今日は寒いですね」「お疲れ様でした」。そんな風に言葉を交わすこともあるが、軽く会釈を交わすのがせいぜいで、大抵は、衣服で膨らんだ物体になって狭い空間を誰かと共有する。
モノのフリをしていても、そこには様々な社会的ルールが存在する。ドアの方を向いて立ち、互いに目を合わさない。混んできたら場所を譲る。降りる人を遮らない。中でしゃがまない。行き先ボタンで遊ばない。化粧直しをしない。隣の人にすり寄って匂いを嗅いだりしない。そうした「儀礼的無視」を皆が守る事で空間の秩序が保たれる。
昨年3月まで私の研究室は別の建物にあった。授業で使う教室は研究室から近い場所を指定するから、研究室を起点に、教室、事務室、会議室、図書館へと移動する私の動線は大きく変わった。それにつれて、以前はいつでも会えると思っていた人とめったに会わなくなり、その代わりに新しい「顔見知り」が増えた。
たかがエレベーター、されどエレベーター。私たちは職場という「空間」に出勤するが、その中では「線」の上を移動する。この小さな箱は、人の動線を交差させ、ネットワークの範囲を規定する。
アメリカのある大学で、人の動線を変える実験が行われたことがある。15階ビルの2階にある有料のコーヒーマシンを、午後3時から4時の1時間だけ無料にしたのである。この時間限定というのがミソで、その間だけ振る舞われる無料のコーヒーを目当てに、他の建物からも足を運ぶ人が増え、小さなラウンジに人が集うようになった。
エレベーターとは違い、ここで会う人はモノになったフリをしない。持参のマグカップにコーヒーを注ぎ、一口すすって、「今日も寒いですね」、「あと一日で週末ですね」、そんな一言二言交わして別れていく。目と目を合わせ、笑顔を交わす。たかがコーヒー、されどコーヒー。線と線の交差する「点」が、「面」に広がっていく。
この実験を仕掛けたのは心理学部の教授。学部の予算から費用を捻出したらしいが、心憎い試みだ。
ベンチ一つ、水飲み場一つで、街の雰囲気が大きく変わるように、一台のコーヒーマシンが職場の雰囲気を大きく変える。職場に友達はいらないという人もいるけれど、言葉と笑顔が交わる職場の方が、何倍も楽しく仕事ができると思う。
「悠+(はるかプラス)」2010年2月号 『砂場のダイヤモンド』