シングルマザー論争

「家族」をめぐる論争

 

私たちがアメリカに来た四年前の一九九二年の夏、この国では副大統領の「マーフィー・ブラウン発言」が大きな論議を巻き起こしていた。マーフィー・ブラウンというのはテレビの人気番組の主人公で、未婚の母でマスコミで活躍するキャリアウーマンという設定なのだが、当時副大統領だったダン・クエールが、「子どもにとって両親そろった家庭こそが最良。マーフィー・ブラウンのような未婚の母が増えることはよろしくない」と言ったから、さあ大変。シングルマザーについて、「家族」のあるべき姿について、古くて新しい議論が再燃した。折しも大統領選挙の年。四年に一度めぐってくる選挙の年は、なんでもかんでも政治問題になりやすいが、特にこの時は「家族と福祉」が争点の一つだったからなおさらだ。犯罪、ドラッグ、貧困などのアメリカの社会問題の根元が「家庭の崩壊」にあるとする保守陣営と、離婚の増加や同性愛者の結婚をも家族形態の「変化」と見るリベラル陣営とでは「マーフィー・ブラウン問題」に対する考え方もまったく違っていた。共和党が「家族の価値」を前面に打ち出して「伝統的な」家族の復活を唱えてクエール発言を支持すれば、民主党は諸悪の根元は家庭の崩壊ではなく「貧困」だとし、福祉の充実を掲げるという具合。女性の権利を主張する人々からみれば、「マーフィー・ブラウン」は、女が男に頼らなくとも一人で立派に子どもを育てることができるようになったという「進歩」とも映るが、逆に両親そろった伝統的な家族を養護する側からは、父親のいない子どもを作るのは亡国の兆しと映る。さらに、人工妊娠中絶をめぐるプロ・チョイス(中絶容認派)とプロ・ライフ(中絶反対派)の対立も加わり、アメリカに着いた早々、私たちはどこに行っても「ファミリーバリューについてどう思うか」「プロチョイスかプロライフか」という議論を聞かされ、うんざりしたものだった。ディナーの席で政治と宗教の話は避けた方がいいとはよく言われるが、それに加えて「家族」も大変微妙な話題であることを私たちは知った。家族の大切さに異論を唱える人はいない。その限りにおいて「ファミリーバリュー」には誰でも賛成できる。だが、問題は、なにをもって「家族」とするかという点で意見が分かれ、それがその人の「政治信念」と「宗教信条」と「生き方」に絡まりあっていることだ。「望ましい家族のあり方」には誰もが一家言ありで、しかも決してゆずらない。ちょうどそのころ、プロ・ライフの急進派が中絶クリニックに爆弾をしかけて医師を殺害するという事件が起きた。(胎児の)生命の尊重を主張するあまり殺人を犯すという倒錯!バブル景気の余韻がまだ残っていた平和の国ニッポンから来た私たちは、なんて国に来てしまったのかと、ただただ戸惑うばかりだった。

 

聞いてはならない「配偶者の近況」

 

「家族」に関する話題で最も注意を要するのは「配偶者の近況」だ。ひさしぶりに会う人に「ところで、奥さん元気?」なんて聞くときにはよっぽど気をつけた方がいい。その奥さんとは離婚しているかもしれないし、違う奥さんと再婚しているかもしれない。「どの奥さんのことだっけ?」なんて聞き返され、座が白けないとも限らない。私が学生時代にアメリカに留学した際に知り合った友人の中でも、だれが離婚した、かれが離婚した、と何人も名前が挙がってしまうし、この四年間にできた友人の中でも離婚経験者は十指に余る。ちなみに、私たちが住んでいる三階建てのアパートには一棟に十二世帯が入っているが、その内の何人が離婚を経験しているだろう。三階に住んでいるベティーは六十九歳。四人の子どもたちはみな成人しているが、夫とは十二年前に熟年離婚。つい最近同じ三階に引っ越してきた中年のアーティストも同じく離婚経験者。彼のアートのモチーフはトカゲらしく、愛車のルーフとフェンダーには色とりどりのトカゲのおもちゃが所狭しと飾りたててある。トカゲをべたべた張り付けた車を乗り回す中年男がアパートに引っ越してきた時はちょっとしたインパクトがあって、近所中で「あのトカゲの車」と大いに話題を振りまいた。彼の車は町中でもすぐ目立つので、複数の愛人を連れ歩いていることも、別れた妻との間の三人の子どもがときどき泊まりにくることもみんなが知っている。このトカゲアーティストが引っ越してくる前に住んでいたアンも二人の娘をつれて離婚したシングルマザー。下のリジーにはときどき麻里恵のベビーシッターを頼んでいたが、週に何日かを近所に住む父親と過ごしていたのでスケジュール調整が大変だった。二階に住んでいるクラウディアもやはり大学生の娘をつれて離婚。ことほどさように、離婚の話はよく耳にする。アメリカ人カップルの二組に一組が離婚するという統計はやっぱり本当なんだと、妙にナットクさせられる。さて、マーフィー・ブラウンから四年。また選挙の年がやってきた。

 

母子家庭の子はカワイソウ?

 

犯罪、ドラッグは相変わらず連日テレビのニュースをにぎわしているし、「家族と福祉」に関する議論も盛んだが、この四年間にアメリカで大きくクローズアップされてきたのが「子ども」と「貧困」。特に、母子家庭の子どもの福祉について真摯な、しかし波乱に満ちた議論が交わされてきた。先回、「共働きの子はカワイソウか」という議論が、アメリカではすでにすたれてしまったことを書いた。幼児を抱えるアメリカ人の母親の半数以上が仕事を持ち、ミドルクラスの生活レベルを維持するためには妻の収入が必要なこと。ワーキングマザーの生活は確かに大変なことには変わらないが、「共働きの子はカワイソウか」という問いは現実に合わないということ。そして少なくとも、「母親が働くこと自体が子どもに悪影響を及ぼすという証拠はない」という点で共通認識ができつつあること。では、それと同じように、これだけ離婚が増え、子どもの半数近くが成人するまでに両親の離婚を一度は経験するという事態にいたり、「母子家庭の子はカワイソウか」ということもオープンに議論されているかと思うと、そうでもなく、微妙な問題を数多く含み、また論点そのものもかなり錯綜している。確かに、アメリカ人の子どもの半数近くが一度は両親の離婚を経験するようになると、学校でも地域でもそれなりのサポート体制はできてくる。シングルマザーの集いは無数にあり、定期的に集まったりニュースレターを発行してお互いに励まし合う。シングルマザーを対象にした雑誌もいくつもあるし、「がんばれシングルマザー」とか、「元気印のシングルマザー」、あるいは「シングルマザーのサバイバルガイド」みたいな本もいっぱい発行されている。本屋をのぞけばこの手の本はあふれているし(一部は日本で翻訳出版されている)、母子家庭の子どもを対象にした絵本すらある。だから、「お母さんが働いていてカワイソウ」と後ろ指をさされることがないのと同じように「お父さんのいないカワイソウな子」みたいに言われることも日本よりは少ないかもしれない。だが、「母子家庭の子はカワイソウか」という問いに真っ先に反応するのもシングルマザーである。
いろいろな機会にそのことを感じていたが、最も強くそう感じたのは、ある本屋のレジで店員さんと言葉を交わした時だった。このとき私は、『Growing Up with a Single Parent (母子家庭で育つ)』という本を買った。これはマクラナハンという社会学者が書いたもので、離婚が子どもに及ぼす影響について検証した話題作だった。お金を払おうとレジに行き、女性の店員さんに本を渡したとき、彼女が私に話しかけてきた。
「母子家庭の子だってちゃんと育つわよねえ、そうでしょう?」
客(私)が買う本の内容について本屋の店員さんに議論をふっかけられたのは初めてだったからびっくりしたが、この時私はあいまいに言葉を濁すしかなかった。なぜならば、マクラナハンのこの本は「両親の離婚は子どもにとって悪い影響がある」と断言したものだったから。彼女が「ちゃんと育っているわよね」と私に同意を求めたのは、両親そろった家庭の子でもちゃんと育つ子もいれば非行に走る子もいる。それと同じように、母子家庭の子でもちゃんと育つ子もいればうまく育たない子もいる。子どもが育ちそこねる確率はどちらも同じだと、そんなニュアンスを含んでいた。「ウチは母子家庭だけど、子どもはちゃんと育ってるわ。」

 

「ちゃんと育つ」の基準はどこに

 

ところで、なにをもって子どもがちゃんと育っているとか育っていないとかを決めるのだろう。このこと一つとってみても実はとてもむずかしい。小学、中学と優等生だったイイ子が高校に入ったとたんにグレて覚醒剤に手を出したとか、その逆にグレきっていた放蕩息子が何かのきっかけで改心して立ち直り、偉大な孝行者になったとか、そんな話は掃いて捨てるほどある。アメリカの社会学者が「子どもがちゃんと育っているか」を判断するのによく使うのは、「将来生活保護の世話になるかどうか」。生活保護を受けることは独立した生計をたてられないということで、自主独立を重んじるアメリカの文化が反映されている。経済的自立の他にも、もちろん、精神的自立、社会的自立という側面も考えなくてはいけないが、お金で買えない幸せもたしかにあるけれど、最低限のお金がなければ幸せになるのはむずかしいということだろう。しつこいようだが、地獄の沙汰も金次第。皮相と言われれば身もフタもない。他によく使われる基準は、高校中退、ティーンの妊娠、大人になって離婚したかなど。これらがよく子どもの福祉を計るのに使われるのは「生活保護の世話になるかどうか」を予測する大変有力な指標だからだ。高卒と中卒では所得に雲泥の違いがあること。アメリカで高校卒業の免状があるとないとでは、昇進のチャンスも収入も、それ以前に、仕事にありつけるかどうか、大きな開きが出てしまう。従って高卒の免状がなければ生活保護を受ける確率が上がる。ティーンで妊娠するとそのまま高校あるいは大学を中退し、未婚の母になって貧困層の仲間入りをする確率が高いこと、離婚はできれば誰でもが避けたい事態だし、特に女性は離婚すると生活レベルがぐっと下がり生活保護を受ける確率が高くなること等。もちろん、高校を中退しても一代で巨万の富を築き大成功を納めた人もいる。だから、これらはすべて「他の条件を一定にした場合」の「確率」の問題でしかない。

 

人種と階層のクロスオーバー

 

アメリカで母子家庭にまつわる議論が錯綜してきた背景には、いろいろな理由がある。
まず、一言に母子家庭と言っても、それが「離婚」によるものか、「未婚」によるものかに分かれ、その違いが「人種」と大きな関わりがあること。白人の母子家庭の場合は約半数近くが離婚によるものだが(離婚後子どもはほとんどの場合母親に引き取られる)、黒人の母子家庭は約半数が未婚の母、つまり、結婚せずに子どもを産んで母子家庭を形成している。おおざっぱに言えば、白人の母子家庭は離婚によるものが多く、黒人の母子家庭は未婚によるものが多いという図式ができあがる。次に、母子家庭は「貧困」と密接な関わりがあること。「貧困」を計る際によく使われるのが貧困ラインと呼ばれる政府の決めたガイドラインで、カツカツどうにか食べていけるという最低限の収入を表す。これは生活保護の対象になるかどうかを判断するときにも使われる。六歳のアメリカ人の子どものうち、貧困ライン以下の生活をしている子どもは四人から五人に一人。もちろん六歳の子どもが自分で稼いでいるわけではないので、五人に一人の子どもが貧困ライン以下の生活というのは、そういう家庭に育っているということだ。そこで、子どもたちが育っている家庭の家族形態を見ると、両親そろった家庭の子どもの貧困率(貧困ライン以下にいる人の割合)は十二パーセント。それに対し、母子家庭では五十九パーセントに跳ね上がる。特に人種による違いが著しく、貧困ライン以下にいる白人の子どもの約半数が母子家庭の子どもなのに対し、黒人では八割が母子家庭の子どもであると言われている。離婚と貧困と、どちらが原因でどちらが結果かという点でも、議論は大いに分かれる。離婚すると女性はほとんどと言っていいほど収入が下がる。ある研究によると離婚後女性の生活レベルは三十パーセント下がるが、逆に男性の場合は十五パーセントほど上がるという(養うべき人間が減るから)。この意味で、母子家庭の形成は貧困の原因の一つとみなされる。しかし、経済的に恵まれない人は離婚する確率が高いことから、貧困が離婚の大きな背景となっていることも無視できない。さらに、「貧困」は「人種」と結びついている。白人の貧困率は十一パーセントに対し、黒人の貧困率は約三十三パーセント。ここまで読むと、母子家庭=貧乏、貧乏=黒人の母子家庭、だから「母子家庭問題」は「黒人の未婚の母の問題」ととらえたくなる。これがアメリカのシングルマザー論議が錯綜する最も重要な理由だ。
ある人が貧しいのは黒人だからなのか、あるいはシングルマザーだからなのか。
人種が原因ならば問題にすべきは「差別」である。人種は生まれつき与えられるもの。なにも好き好んで黒人に生まれたわけではない。その人の努力ではどうにもならない属性(人種とか性別)を理由に正当な機会を剥奪されること、それが「差別」である。これはできる限り是正されねばならない。教育の機会均等、就職の機会均。アメリカ社会は常にこの「差別問題」と闘ってきた。ところが、貧困の原因が未婚で子どもを産むこととなれば問題への対処方法が違ってくる。人種や性別とは違い、結婚せずに子どもを産むことはその人の意志でどうにかなることだ。だから、つきつめて考えると、ある人が貧乏なのはその人がそういう選択を選んだからで、結局「自業自得」となってしまう。だが、これを言うととたんに反論の火の手が上がる。黒人の女性がなぜ結婚しないか、それは黒人男性の所得があまりにも低いからだ、と。そもそも世の中の仕組みが不平等にできている中で、問題を抱えた人に、おまえが苦しんでいるのは自業自得だと言えば、被害者を責める(Blaming the victim)ものだと非難されるし、一歩間違うと人種差別発言ともとられかねない。アメリカ人のうち黒人は十二パーセント。だから、絶対数で言えば貧困ライン以下の生活をしている人は圧倒的に白人が多い。全体的にみると、貧困層の六十六パーセントは白人だ。だから、貧困=母子家庭=黒人の未婚の母という図式は問題の大半を取りこぼすことにもなる。つまるところ、「母子家庭の子どもはカワイソウか」という議論がむずかしいのは、このように人種、性、貧困という大きな問題が集約されているからだ。マーフィー発言が大きな波紋をよんだ背景には、人種と性と貧富の格差にまつわるアメリカの歴史的葛藤がある。

 

子どもが握る未来

 

シングルマザーがアメリカで社会問題になる理由は、これが子どもの福祉をどうするかということの鍵を握っているからに他ならない。アメリカの未来を担う子どもたちが、衣食足りてまともに教育を受け、犯罪・ドラッグで人生を台無しにすることなく、経済的に自立したまっとうな社会人に育つためにはどうしたらいいか。「貧困」は教育の機会を剥奪し、子どもの健康と安全を阻害し、犯罪・ドラッグに子どもをさらし、その結果として「人生をコケる」確率を高める。従って、子どもの貧困問題の解決なくして、アメリカに明るい未来はない。離婚、未婚を含めてアメリカの母子家庭の子どもは高いリスクにさらされている。例えば高校中退率を見ても、両親そろった家庭の子どもの中退率は十三パーセント。片親(母子)家庭の子どものそれは三十二パーセント。これを人種や学歴別にみても片親家庭の子どものリスクは高い。だから、総じて「母子家庭の子どもはカワイソウ」という結論に至るのだが、それが何故かということを解明するのは大変むずかしい。ある人は母子家庭の形成に伴う貧困をあげ、ある人は親のしつけを問題にする。離婚して生活レベルが下がるのが問題だと誰かが言えば、いや、離婚する人はそもそも経済的に恵まれない人が多いからで、離婚そのものが悪いのではないと反論される。両親が不仲で夫婦喧嘩が絶えない家庭よりも母子家庭の方がマシだ。いや、一人で子どもを育てるストレスから子どもにちゃんと手をかけられないことの方が問題だ・・・・・・。マクラナハンの本が画期的だったのは、このように錯綜した政治的論争の地雷原にあえて踏み込み、所得面以外にも、親子関係、地域関係との関わりをも視野に入れながら、母子家庭で育つということは子どもにどんな影響があるかという難しい問題に真っ正面から取り組んだことだ。結論から言えば、母子家庭の子どものリスクはやはり高い。高校中退、ティーンで妊娠する可能性は、両親そろった家庭の子どもにくらべて二倍もあるという。しかも、所得の格差が「母子家庭の子どものリスクがなぜ高いか」ということの半分を説明し、あとの半分は母親がストレスなどから子どもに十分手をかけてやれないこと、離婚後の引っ越し等により様々な人間関係(友達や親戚、先生、近所の人との関係)を失うからだという。マクラナハン自身もシングルマザーである。子どもを育てながら大学院に通い学者になる道を選んだ。十年前に彼女がこのテーマに取り組み始めた八十年代は「元気印のシングルマザー」の時代だった。十分な研究はなされていなかったが、母子家庭の子どもだってちゃんと立派に育つというのが一般の通説になっていたし、彼女自身もそれを確かめたくてこのテーマを選んだという。ある意味では、その通説は今でも正しい。リスクが高いとは言え、母子家庭で育つ大多数の子どもはちゃんと育っているのだから。離婚がまったくない国、未婚の母が一人もいない国は恐ろしい。結婚という制度の外で女・子どもが生きられないことを意味するからだ。だが、子どもの半数がそれを経験するというのは多すぎる。離婚したり未婚の母にならざるを得ない時には、子どもへの影響をよくよく考え、リスクを最小限に押さえるよう努力すべきだと、マクラナハンは警告を発する。こうした結論に達した時、彼女はどんな思いだったのだろう。翻って、今日本は大きな岐路に立たされている。保育自由化問題にしろ、夫婦別姓問題にしろ、社会保障制度の建て直しにしろ、子どもや高齢者に対する責任を、誰がどのようにとるのかの新しいルールを作ろうとしている。どんな選択を日本がとるか。それによって二十年後、三十年後の日本の姿がまったく違うものになることは間違いないだろう。

アメリカ家族留学記(5)『わいふ』Vol.261掲載(1996年7月)

 

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