テーブルマナーが変わる時

アメリカに住んでいた時のこと。アパートの二つ上の階にグレース(仮名)という老婦人が年取った猫と住んでいた。私たちも猫を飼っていたことがきっかけで、引っ越してきたその日に声をかけられ、ご近所づきあいが始まった。

 

年は70代の前半。スラリとした長身にグレーの瞳と豊な銀髪。若い頃は美人だったのよと本人は言っていたが、70歳を越えてもなかなか美しく、シャンと伸ばした背筋を見ると、私もあんな姿勢で年を重ねたいと思ったものだ。

 

グレースは教養もあり好奇心旺盛で話題も豊富。家族ぐるみで多くの時を共にし、そのほとんどは楽しい思い出となっている。だが、彼女と話していると、ごくたまに、かすかな不快感を感じることがあった。例えて言えば、美味しいご馳走に砂が一粒混じっているような感じ。身体のどこかでジャリっと不快な音がする。

 

ある日のこと、彼女の友人がホストをしている日本人の女子留学生のことが話題になった。

 

「まあ、その子がとってもいい子でね。ほんとうにお行儀もよくって気が利くの。それに、ものすごい美人なのよ。まるで日本人じゃないみたいに。」

 

もとよりグレースに悪気はない。日本人を侮辱しているつもりもない。差別の自覚もない。だが思わぬところにひょっこり現れる日本人を見下す気持ち。それが私の不快感の原因だった。

 

彼女とのご近所づきあいは三年後に彼女が他の州に引っ越すまで続いたが、その間、私から差別問題について話題にすることはなかった。

先の日本人の留学生の会話でも「ふーん、そうなの?」とあいづちを打ってすませた記憶がある。

なぜ抗議しなかったかといえば、それが大人の会話というものだからだ。そんなことにいちいち目くじらを立てていたら身が持たないではないか。

 

一瞬感じた不快感は、こうして無意識の中に葬られ、なかったことにされていく。

 

「そんなつもりはなかった。」

セクシュアル・ハラスメント(セクハラ)の加害者として訴えられた人は、ほとんど必ずこの言葉を口にする。

 

そう、「そんなつもり」の自覚がないところに、悪気のないところに、邪心のないところに、セクハラがセクハラとして存在する仕組みがある。

 

その仕組みを説明するのはなかなか難しい。セクハラに曝される人の気持ちというのは、たとえて言えば、グレースの発言を聞く日本人の気持ちによく似ている。

 

セクハラは「相手が嫌がるような性的な言葉や振る舞い」。しかも加害者側には「嫌がらせをしている」という自覚がなく、「挨拶」や「社交辞令」あるいは「恋愛」だと思い込んでいるケースが少なくない。男性から女性に対して行われるものだけとは限らず、女性から男性に、また同性間でも起こりうる。

「セクハラとは何か」という問いは、先にとりあげた「暴力とはなにか」という問いと同じ構造を持っている。暴力を規定するのは社会的文脈であり、殴る・蹴るという行為も「スポーツ」に、刃物で斬りつけることも「医療行為」になったりする。そして、暴力を暴力として認識させない社会装置が「差別」なのだ。

 

差別が社会に埋め込まれているとき、暴力はしばしば「挨拶」や「社交辞令」の衣を纏って現れ、被害者の不快感は積極的に「なかったこと」にされていく。

その力学は、私がなぜグレースに対して抗議しなかったかということを考えれば分かりやすい。

 

社交辞令は社交辞令として受け取るのが、社会に生きる私たちの暗黙のルールだ。

そう、私たちは高級レストランで給されたディナーに砂が一粒混じっていても、そっと飲み込み何もなかったように振る舞うことができる。

それが大人のテーブルマナーというものだ。

その場の雰囲気を壊さないために大事(おおごと)にはせず、グラスの水を一口飲んでナプキンで口を拭っておしまいなのだ。

 

そんなちょっとした不快な経験が100回あって一回くらい、「そんな言い方はやめてください」と抗議するかもしれない。でも、やんわりと返さないといけないのでやっかいだ。「怖い女だ」とか「ヒステリー」と言われるのがオチだから。

 

取引先で「ウチの女の子」と紹介され、「(私の名前は)○○です。よろしくお願いします」と、笑顔でつなぐ。

(「ウチのおじさん」と言われたらどう思います?)

 

「君は本当に優秀だね、女にしておくのはもったいないよ」

「まあ、恐れ入ります。」と、ここもニコニコと丸く収めておこう。

(「日本人にしとくのはもったいない」と言われたら頭に来ませんか?)

 

百ケースに一回やんわり返し、千ケースに一回「それってセクハラ!」と冗談めかして笑い飛ばす。

 

ゴキブリが一匹見つかれば家にはゴキブリが三百匹はいるという。同じように、一件の「セクハラ」が「セクハラ」として認定される背後には、こうした無数の不快感があることを忘れてはならない。

 

『家庭の友』2013年9月号 掲載

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