フリマデビュー

賞味期限が過ぎたハム。なんとか食べられるかもと思いながら日が経っていく。いつかは捨てることになるのに、なぜかすぐには捨てられない。冷蔵庫に安置して成仏するのを待っているかのように。もちろん傷んだハムは成仏などできるはずもなく、捨てるときには心が痛む。

 

「パーティーに素敵ですよ」。店員の言葉に乗せられて衝動買いしたヒールの高いドレスシューズ。結局それらしいパーティーなんて一度もなくて、ほとんど履いていない。

 

誕生日に夫が買ってくれたバッグ。かなり長い間私を幸せにしてくれたが、ここ数年使っていない。くたびれているので引き取り手はいない。かといってゴミと一緒に出すのは気がひける。

 

モノを捨てるのはひどく疲れる。収納場所から掘り出す手間、いるのかいらないのかという迷い、衝動買いへの反省、思い出との対峙、感情処理のエネルギー。モノに対して勿体ないし、自分の時間も勿体ない。

 

モノをためこまないよう極力心がけてきたつもりだったが、いつの間にか収納場所は満杯になり、納まりきらないモノが家中にあふれていた。家が片付かないストレスが限界に達し、フリマ出店を決意した。

 

夫と娘の協力を仰ぎ、一ヶ月かけて家中の棚卸しをした。目安は過去3年間に使ったか否か。捨てる前に誰かに使ってもらうチャンスをあげる。モノに対する供養だと説明した。

 

初めて出店したフリマ。貴重な発見があった。いざ店開きをしようとしたら、荷解きする端からめぼしいものだけ素早く買っていくお兄さんがいた。プロなのだろう。即決の理由を考えて気がついた。彼は「ショッピング」をしているのではない、「仕入れ」をしているのだ。判断基準が「売れるか否か」で決めている。「自分が欲しいか、必要か」ではないのだ。自分に似合うのか、サイズは合うのか、そんなことは一切関係ない。つまり仕入れたモノとは個人として関係を結ばない。

 

ところが私たちが持ち込んだ品々は、私たちにとって一度は「縁」を持っていた。幻のパーティー用だったとしても、だ。モノを捨てるときエネルギーを使うのは、この「縁」のせいかもしれない。

 

なにはともあれ、家族三人一日かけて、大きなスーツケース三個分のモノの供養をすることができた。靴もバッグもちゃんと旅立っていった。娘がかつて大切にしていたぬいぐるみは、小さな女の子に気に入ってもらえた。「いっしょに寝る子になりそうね」。お母さんが100円玉を手渡しながらその子に言った。

 

「幸せになるんだよー」

 

娘が笑いながらぬいぐるみに手を振っていた。

 

「悠+(はるかプラス)」2009年10月号 『砂場のダイヤモンド』

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