大学院生の懐事情
「わー、なつかしい!アメリカのにおいがする!」六カ月間にわたる日本での一時帰国を終え、シカゴ空港に降り立ったとき、娘の麻理恵(七歳)が最初に気づいたのは、空港のロビーのスタンドで売っているポップコーンの香りだった。彼女にとってはこれが、「アメリカのにおい」で、それを「なつかしい」と言う。チェックアウトカウンターから汗だくで引きずりおろした、合計百八十キロにおよぶ大量の荷物の通関を終え、夫が待つデトロイト空港までのフライトの手続きを済ませ、ヤレヤレとソファーに座り込む。時差ボケと寝不足に加え、前日の荷造りと子連れの長旅の疲れで体中から力が抜けていく。そんな私をねぎらうかのように麻理恵がささやいた。「お母さん、やっと、アメリカに帰ってきたねエ」日米往復の3年間私たち一家がアメリカに渡ったのはちょうど三年前。四歳からの幼児期をこの国で過ごした麻理恵にとって、すでにアメリカは「帰る」ところになっている。麻理恵と私は昨年の三カ月間を日本で暮らし、秋にアメリカに来たと思ったら、次の年はまた六カ月間を日本で過ごした。アメリカと日本を文字どおり行ったり来たりした。国境をこえて学校を何度も転校した麻理恵はその度に経験するカルチャーショックもけなげに乗り越え、アメリカに「帰ってきた」と無邪気に言う。そんな様子がなんともいじらしい。そういえば、私も今回の渡米を「アメリカに行く」のではなく「帰る」と何気なく表現していた。家族がいて仕事がある場所、その生活拠点がどこであれ、そこに私たちは「帰って」いく。ただ、この一年間、私たちの「家」がどこにあるのか、どこに「住んでいる」と言うべきか、少々複雑な事情があった。MBA(経営学修士)を目指す夫と、社会学の博士号を目指す私が、当時四歳の娘を連れて、アメリカ・インディアナ州のノートルダム大学に子連れで「夫婦留学」したのが一九九二年の夏。夫は日本での勤め先を休職し、私は大学での職を辞しての三十代からの再出発である。夫は昨年の春MBAを修了し、デトロイトにある会計コンサルティング会社に勤めている。私は、大学院で勉強を続けるためノートルダムに残り、今年の二月から七月までは、博士論文のデータ集めの調査のために麻理恵を連れて日本に一時帰国していた。夫が住むデトロイト近郊のアナーバーという街から、麻理恵と私が住むノートルダムまでは車で片道三時間。距離にすると、東京と浜松くらいだろうか。昨年の秋から今年の春にかけての六カ月は、金曜日の夜に仕事を終えた夫がノートルダムを訪ね日曜の夜にアナーバーに戻っていくという半母子家庭生活。さらに、今年の春から夏にかけての六カ月は、アメリカと日本に離れての「国際別居生活」であった。ノートルダムの小学校で図画工作の時間に麻理恵が描いた絵には、二つの家が描かれていた。お父さんはこっちの家に、お母さんと自分はもう一方の家に。絵の下には、Ilike my Dad's house, too. (パパのおうちも好き)と幼い字で説明書きがある。事情を知らないアメリカ人が見たら、お馴染みの「離婚係争中」の家族と思っただろう。アパートの家賃から電気代に電話代。すべてダブルにかかる生活費の負担に加え、たわいのない夫婦の会話も長距離電話という別居生活のストレスの重さは筆舌につくしがたい。日曜日の夜、夫の車を見送ったあと、麻理恵と二人手をつなぎ、ポツンと明かりのともるアパートに帰りながら「こんどお父さんが帰ってくるまで、二人で仲良く暮らそうね」と、誓い合う切なさと心細さ……。夕食をすませ、麻理恵を寝かしつけながら私もうたた寝し、夜中の三時頃に起きて片づけものをしてから勉強にとりかかる。そんな時には、「どんなグータラ亭主でもいい、近くにいて欲しい!」と、切実に思ったものだ。だが、そんな落ちつかない生活もあとわずかだ。一週間後にはノートルダムのアパートを引き払い、アナーバーで家族三人の新しい生活が始まる。私の博士号取得まであと論文執筆を残すのみとなったので、とりあえず、アナーバーに生活拠点をまとめて一緒に暮らすことができるからだ。その引っ越しの準備と、日本での滞在中の六カ月間ですっかり英語を忘れた麻理恵の「文化リハビリ」もかねて、友達がたくさんいて住み慣れたノートルダムに「帰って」きたのである。私たちの子連れ夫婦留学のいきさつや、子供に負担を強いてまで、なぜこんな道を選んだかという、そこらへんの事情や私自身の思いについてはおいおい書いていくことにして、今回はまず、イキのいいところで「今」のゴタゴタ、つまり引っ越しの状況とアメリカの家族持ち大学院生の懐事情ご紹介したい。アメリカ引っ越し事情麻理恵と私が「帰って」きたのは、「ユニバーシティービレッジ」と呼ばれる大学院生用家族アパートだ。ここは今、引っ越しシーズンの真っ最中である。九月から始まる新学期にむけて入居してくる人や、私たちのように出ていく人。百十八世帯の大学院生家族が居住するこの「ビレッジ」では、このところ毎日のようにUホールのトラックが出入りしている。Uホールとは引っ越しトラックのレンタカー。乗用車の後ろにくっつけて引っ張るコンテナ式のものから大型トラックまで、お値段にあわせて各種取りそろえてある。これを借りて自分で荷物を運び、着いた先でトラックを乗り捨てる。これがアメリカでは一番経済的な引っ越し方法だが、私たちはこれよりさらにワンランク安い引っ越し方法を選ぶことにした。ここ一年間私たちはアナーバーとノートルダムと二つの所帯を構えていたので、鍋釜からテーブル、テレビまで基本的な家財道具はすべて二セットそろっている。トラックを借りて重い家具を運ぶより、こちらにあるものを売り払って極力身軽になり、乗用車で運ぶほうが割に合う。ネズミが引くような引っ越しだ。三年前にアメリカに来たとき、私たちの持ち物は、スーツケース三個とパソコン二台の他、別送した本と最低限の身の回りのものしかなかった。それが、この三年間で家財道具はみるみる増殖し、今や二LDKのアパートをしっかり埋めている。天井までとどく大きな本棚が三つとそこにぎっしり詰まった本。この本棚は夏の終わりに大学が主催するガレージセールで一つ七十五ドルで買った。夫と私と麻理恵の勉強机が三つ。これも同じく大学のガレージセールで買った。去年の夏にやはり中古で手に入れた洗濯機と乾燥機。三十年使ってもこわれそうにない、やたらと重くて頑丈で、そしておそろしく大きな音をたてる代物。ソファー、テレビ、コーヒーテーブル、ダイニングテーブルセット、その他いろいろ。ああ、なんとたくさんのモノの囲まれていることか!それから、たまるに任せた麻理恵のおもちゃ。最初にアメリカに来る前、麻理恵は段ボール一箱与えられ、それに入らないおもちゃはすべて日本に置いてこなければならなかった。私の弟が買ってくれた大きなウサギのぬいぐるみや遊び込んだ積み木セット。それら大切なおもちゃの大半を持って来れなかったことがトラウマ(精神的外傷)になっているのだろうか、自分の持ち物のどれ一つとして捨てたくないという。仕方がない、これは全部もっていくことにしよう。引っ越しセール大繁盛さて、処分すべきモノのリストが出来たところで「売ります」のポスターを作って掲示する。売値は買った値段の四分の一から半分。今回はとにかく「無くする」ことに意義があるので値段の上に、交渉に応じますという意味で、"Asking"と書き、連絡先の電話番号を載せてコピーし、「ビレッジ」と大学図書館の掲示板に貼っておく。さらに、これを見た人が電話番号をメモする手間を省けるよう、ポスターの端に電話番号を並べてタイプし、切り込みを入れてちぎれるようにする。これもアメリカに来てから習得した生活の知恵の一つである。掲示を貼りながら「ビレッジ」を一回りし、帰ってきたところで、さっそく最初の「お客」が見つかった。廊下をはさんだ向かいのアパートに新しい家族が入居してきたのだ。ニューヨークから来たジェーンとジョン、それに六カ月のマイク。ガランとしたアパートに段ボール箱が散乱し、その中に長髪を後ろでくくった髭モジャ男が乳のみ児を抱いている。ジェーンがノートルダム大学の建築学科の大学院に進むためにここに移ってきたが、ジョンはしばらく「主夫業」に専念するという。せっかく会えたけれど、私たちはすぐ引っ越すのと言うと、「何か売るモノある?」と、聞く。ポスターの残りをあげると、あ、これと、これと、これ買うわ、という具合で商談成立。ダイニングテーブルと椅子は最後まで必要だろうから私たち出るときまで待つというので、それまでのつなぎにと、コーヒーテーブルをおまけにあげる。アパートに帰ると、冷蔵庫にメモが貼ってあった。冷凍庫の調子が悪いので修理を頼んでおいたのが、留守中にサービスマンが来てくれたらしい。「冷蔵庫を修理しておきました。これでうまく動くはずです。ところで、テーブルの上にあった引っ越しセールのポスターを見たのですが、もしよかったらテレビを売っていただけませんか。下記に連絡してください。」五分とたたないうちに電話のベルがなり、テレビを見に来るという。サンヨーのカラーテレビが五十ドル。子供用にもう一台欲しいと思っていたところなので、安く買えてうれしいとよろこんでくれた。こんな具合で掲示を出してから二日間の間、ジャンジャン電話が入り、千客万来。わが家の引っ越しセールは大繁盛した。ウクライナから来たデミトロは新婚さん。奥さんを連れてアメリカに来たばかりでなーんにもないという。机と本棚、それにソファーを大喜びで買ってくれた。台所のものもほとんどないというので、今朝、いらない皿やボールなどをあげると、ほら、僕たちのアパートはこんなに素敵になったよ、友達がみんなうらやましがっている、と見せてくれた。アフリカのベニンから来ているギラウムはアメリカ人の友達を連れて洗濯機を見に来た。連れてきたのが顔馴染みの大学院生だったので、「へー、中古洗濯機のコンサルティングもしていたの」と、言うと、「ハハハ、機械には強いほうでね。簡単な故障くらい自分で直しちゃうよ」と、言いながら、懐中電灯片手に洗濯機の隅々を調べまくる。「うん、これはまだサビもでていないし、しっかりしている。買っても大丈夫だよ」と、お墨付きをくれた。ただ、「ビレッジ」の中で洗濯機が他にもいくつか売りに出ているから、それも見てから決めたほうがいいと帰っていった。次の日、ギラウムから電話があり、お宅の洗濯機を買いたいが、六十ドルに負けてくれないかという。売値は七十五ドル。ここ一週間は買い手市場ということもあるし、私としては、もしここで売り損なったらこんな重いものどないしようとも思うので、まあいいでしょうとオーケーした。六十ドルといえば日本円にして五千円ちょっと。日本では何を買うでもなくあっというまに飛んでしまう「はした金」である。ところが、ここの物価感覚からすれば、六十ドルにはけっこうな価値がある。缶ビール一ケース(二十四本)が安いものだと七ドル弱(六百円)で手にはいるし、家族三人がマクドナルドでお腹いっぱい食べたとしても十五ドル(千二百円)を越えることはない。ガソリンを入れても一回の給油でせいぜい十二ドル(千円)。この地域の物価が特に安いということもあるのだが、それ以上に、この「ビレッジ」の住人がおしなべて貧乏で質素だということも、1ドルの価値を高めている。貧乏・辛抱・希望アメリカの大学院生、それも家族持ちとくれば、大抵の場合は貧困ラインすれすれの生活をしている。子供が大学を卒業するまでは学費を出してくれる親はアメリカでも多いが、大学院にまで進む費用となると、ほとんどの場合は自分で稼ぎ出している。ノートルダムの場合は一年間の学費が一万六千ドル。単純に計算して日本円になおせば百四十万円弱だが、物価水準が日本の半分から三分の一ということを考慮に入れれば、年間の学費は少なくとも三百万円くらいの価値になる。これを払った上で生活費もまかなうとなると、そこまでスネをかじらせてくれる親は超リッチに限られる。従って、大学からストレートに大学院に進む学生はもちろんたくさんいるが、二-三年働いて学費を貯めてから大学院に戻るケースも珍しくない。ちなみに私と同級生のエリックは35歳で4人の子持ちだし、1年先輩のアンは、42歳で二人の子持ち。さらに、「ビレッジ」の中では、三十歳すぎたヒネた大学院生がゴロゴロしているので、私たちのような「子連れ夫婦留学」も、それ自体は珍しくもなんともない。そして、彼らはほとんどの場合「勤労学生」でもある。教授の研究助手や授業助手として週に二十時間程度働き、大学から「お給金」をもらう。その額はノートルダムの場合、月にわずか八百五十ドル(七万円強)。大学という組織にとって、院生は無くてはならない労働力の供給源でもあるわけだ。月に八百五十ドルという雀の涙でどうやって生活しているのかと思うだろう。もちろんこれは大人一人がカツカツで生活できる額なので、「ビレッジ」の住人の配偶者------ほとんどの場合は妻------は生活費補助のために働きにでている。子供が小さくて外で働けない場合は、ベビーシッターをして稼ぐ。アメリカの大学院生の勉強量はハンパではなく、本人のみならず家族の担うストレスもすさまじいものがある。博士課程に在籍する大学院生を配偶者に持つストレスは、アル中患者を配偶者に持つストレスに匹敵するものがある、と、大まじめにものの本に書いてあるくらいだ。貧乏とストレスに耐えきれずに妻が精神を病んでしまったとか、自殺したとか、離婚したとか、あるいは、夫が博士号をとる間内助の功を積んだ「糟糠の妻」が、夫がやっと出世したと思ったら秘書と浮気をして捨てられた、とか、そういう話も確かによく耳にはいってくる.。「ビレッジ」の住人達は、そういうリスクも承知の上で、数年後のキャリアアップを目指してギリギリの生活に耐えようとしている。長屋風人間関係のあたたかさ「ビレッジ」の家賃は大学から補助がでているので超格安の二百三十ドル。日本の公団アパートより少し大きい程度だが、アメリカの住宅水準からすると「中の下」、あるいは「下の上」の部類に入るだろうか。アメリカで安アパートに住むことには、時として命の危険すら伴うが、「ビレッジ」の場合は別だ。お金持ちは住んでいないからドロボーも来ないし、いざという時に子供を預かってくれる人はたくさんいる。同じ貧乏でも「希望のある貧乏」はいい。初対面の人に「何か売るモノある?」なんて聞かれたり、留守中にサービスマンが勝手に冷蔵庫を修理してくれ、ついでにテレビを買っていったりするのも、「ビレッジ」ならではのことだろう。隣人も互いに同じくらい苦しい生活をしていることが分かっているから、身近なところで助け合おうとする。言ってみれば、長屋風人間関係とでも言えようか。子供を育てるには最高の環境だった。今、この原稿を私が書いている間、麻理恵は別の棟に住む仲良しのアガータの家で遊んでいる。お父さんのグレッグは数学の博士論文を仕上げたばかりで現在就職活動中。お母さんのモニカは大学のサマースクールに通い秘書の勉強をしている。グレッグの仕事が決まれば、彼らもここを出て新しい生活を始めるだろう。もうかれこれ3時間も麻理恵がアガータの家に行ったきりなので、モニカに一本電話を入れる。「マリー(麻理恵)がおじゃましているけれど、うるさくしていない?」「ううん、ちっとも。さっきまでアガータと一緒に外で遊んでいたけれど喉が乾いたって帰ってきたわ。今二人でゲームをして遊んでる」「そう、ありがとう。午後はウチで遊ばせてもいいから、よかったらアガータといっしょにこっちによこしてちょうだいね」「ええ、そうするわ」------私たちのアメリカでの人間関係は、子連れで留学したおかげでどれだけ豊かになったことだろう。アナーバーに移るまでの向こう数日間、麻理恵のスケジュールはびっしり埋まっている。ケイコ一人で引っ越しの荷造りは大変だろうから、マリーをウチで遊ばせなさいという、友人たちからの有り難いサポートだ。さて、上首尾に終わったわが家の引っ越しセール。大きな家具はほとんど無くなり、あと残っているのはこの原稿を書いているパソコンとそれをのせている机だけだ。それすらも二日後には新たな持ち主が引き取りに来てくれる。改めて身軽になったところで、これからアナーバーで家族三人の新たな生活が始まるわけだが、アメリカと日本の子供のしつけや教育事情をはじめ、家族で生活しているからこそ見えてくるアメリカを、今までの経験を交えてご紹介していきたい。どうぞお楽しみに!
「アメリカ家族留学記」(1)『わいふ』Vol. 257 掲載(1996年1月)