アメリカ保育事情(2)

NBCの朝のニュース番組で「デイケア問題」が特集されたときのこと。ゲストとしてスタジオに招かれた保育の専門家がインタビューの中で「賢いデイケア(保育所)の選び方」のアドバイスしていた。前回でもお伝えしたとおり、アメリカの保育基準は州により様々でアテにならず、実際の保育内容は天と地ほどの開きがある。

 

そのニュース番組でも、8月にやっと施行された「家族休業法」(日本でいう産休や育児休業の権利を定めたもの)に触れながら、ワーキング・ペアレンツが直面する仕事と育児の綱渡りをフォーカスしていた。ベビーシッター、ファミリーデイケア、デイケアセンターと子どもの預け先には幅広い選択肢があるのだが、自分の子どもにとって最適なチャイルドケアを選ぶとなるとものすごく大変だ。どの親も口コミ情報を総動員して五感プラス第六感をはたらかせる。そんなニーズもあって「賢いデイケアの選び方」は育児雑誌やテレビの定番テーマとなっている。先のゲストは保育園を見学する時に親が注意すべきポイントを三つあげていた。
1つ、子どもたちが生き生きしているか。
2つ、保育者が生き生きしているか。
3つ、設備が清潔で安全か。

 

では、ここは避けたほうがいいと思わせるマイナスポイントは?というインタビュアーの質問に、この3つの点に付け加えて彼女はこんなことを言っていた。

 

「クラスの子どもたちが一斉に同じことをしているところは要注意ですね。それと、決められた時間以外にも子どもの様子を親が自由に見にこれなかったり、それに難色を示すデイケアは考慮の対象からはずしたほうがいいですよ」このコメントを聞いて私は、つくづくアメリカは個人主義の国なのだと改めて気づかされた。

 

子どもたちが一斉に同じことをしている保育園は要注意というが、それは日本で麻里恵が通っていた保育園の光景そのものではないだろうか。

 

朝礼やラジオ体操に始まり、お遊戯やお絵かき。そんな保育プログラムを思いかえして浮かぶのは、「集団保育」という枠組みの中での子どもの姿だ。

 

翻って、アメリカで私たちが麻里恵を通して触れてきた保育プログラムのキーワードは「自主性」と「独立心」。

 

良きにつけ悪しきにつけ、保育園との付き合いのヒダの中から、日本人とアメリカ人の子どもに対する見方の違いを感じさせられる保育園ウオッチングは大変興味深い。

 

たとえば、麻里恵がEarlyChildhoodDevelopmentCenter(ECDC)に通うことになったとき、「服装のきまりや持ち物で用意するものは?」と先生に聞いて、けげんな顔をされてしまった。

 

日本で通っていた保育園には服装はシャツに半ズボン、スカート不可という「規則」があったし、持ち物も布団カバーからパジャマ袋までこと細かな指定があったから私としては確認したわけなのだが、ECDCの先生は一瞬私の質問の意味がわからなかったようだった。「服装は動きやすくてよごれてもいいものを、持ち物は、たとえばお昼寝のとき手放せないぬいぐるみや毛布などがあればどうぞお持ちください」

 

要するに、子どもの服装などは完璧に親と子どもの「趣味」の問題で保育園がとやかくいうすじあいではないという口ぶりだ。気候に適した動きやすい服装をさせることは必要だが、スカートだろうがズボンだろうが当然構わないという。持ち物も同じような具合でいたって気楽。絵の具を使う時に着るスモックも、大人の古いTシャツがあればそれでオーケー。

 

麻里恵のクラスメートには5歳にしてピアスをしている子が2人もいるし、指輪やマニキュアもめずらしくない。その一方で、「アクセサリーをつけるのは中学になってから」(それだって日本では考えられないくらい早熟だ!)という方針の親もいる。要するに「ウチはウチ、人は人」という大原則が徹底しているから、先生も親もケロッとしていられるのだろうか。

 

さらに、子どもの預け入れの時間帯も家庭の都合で様々だから、一応保育プログラムは8時半から始まっていても、イチ・ニの・サンと何かを集団でしているわけではない。お絵かき、ままごと、クラフト、パソコンと、いろんなメニューが用意されている中からその日の気分で自由に選ぶ、いわばカフェテリア方式なので、後から来た子も先に帰る子もマイペースだ。朝出かける前に描きかけた絵の続きを保育園に持ち込んで続けることもオーケーだ。もう一つびっくりしたのは、親と保育園のコンタクトのとり方だ。たとえば日中でも時間があれば親が保育園にちょっと寄って様子を見ることもできるし、誕生日などの「とくべつな日」にはお昼どきに子どもを連れだして一緒に外食することも可能だ。

 

要するに、子どもの育児方針の決定権はまず親にあるのだという大前提が目に見える形で生きている。通常以外の保育イベントが入ったりすると、必ず親の承諾のサインをもとめられるし、「保育園でのしつけはこうこうこういう具合にします」とかよく説明されるが、込められたメッセージは「それでよろしいでしょうか」という確認であって、「だからご家庭でも協力を」という具合には絶対に、ならない。日本の保育園で「早寝早起きを心掛けてください」とか「心の基地はお母さんです」とかよく言われた記憶が遠い世界のことに思えてくる。保育と育児の間のとりかたの日米の違いといってもいいだろうか。

 

麻里恵の通う保育園は大学の付属施設。一般的に大学の付属保育園は質が高いといわれている。といっても、ECDCの施設は大学の校舎を改造してあるだけなので、ハードウエアの点では日本の認可保育園とは比べものにならないくらいおそまつだ。子ども用のサイズのトイレはないし、シャワー室もない。お昼ごはんは大学のカフェテリアから届けられるので、専任の栄養士がいるわけでも調理室があるわけでもない。最初私たちがここを見学したとき、やたらに高い天井と大人用のロッカーがずらりとならんだ廊下のがらんとした雰囲気に、(どうしてこんなところの評判がいいのだろうか)と不思議に思ったものだ。

 

だが周りの評価はいわばソフトウエアの保育内容に向けられたものだった。おそまつな設備にもかかわらず、とにかく麻里恵は毎日が楽しくて仕方がないらしい。たとえばしょっちゅう遠足があること。スクールバスを持っているフットワークの軽さから(大型免許を持っている保母さんが軽やかに運転していく)、スーパーマーケットのベーカリーを見学したり、ローラースケートに連れていってもらったり。近くのホテルで朝食会という豪華な「社会見学」をさせてもらったこともある。

 

こんなメリーポピンズのような楽しい保育ができる背景には、大学の付属施設という利点があることは見逃せない。大学からの補助金のおかげで恵まれた労働条件に加え、大学生をアルバイトのヘルパーとしてふんだんに雇えること。さらに子どもたちの親は教育熱心な典型的なミドルクラス。好条件が重なっている。

 

ECDCがアメリカの一般的な保育園の姿かというと、もちろん、そうではない。「これがアメリカの保育だ」と自信を持っていえることはただ一つ、ものすごくばらつきが大きいということだけなのだ。

 

「育児は親の権限」とこの国でいう場合、それは極端な話、煮て食おうが焼いて食おうが親の勝手ということにもなりかねず、親の生活水準を反映した子どもの環境の格差の大きさは「総中流」の国ニッポンから来た私たちの想像をはるかに越えている。この国では地域によって街の顔ががらりと変わる。住んでいる人の肌の色が違い、社会階層に天と地ほどの開きがある。この「天と地」の差が子供の育つ環境の質の差に、そして命の値段の違いに直接反映されているところが、この国の恐ろしさであり問題点でもある。一方の極には住み込みナニーにかしずかれ、大豪邸に住む子供がいるかと思えば、もう一方の極には、命の安全すら保障されないスラムに住む子供たちがいる。

 

他人の子どもを育てるためにどうして私の税金が使われなくてはいけないのかという議論が、アメリカの公的保育制度の発達を根本的に阻害してきたし、育児=私事の図式が福祉行政を遅らせてきた。その結果が全体的な子どもの福祉にどのような影響を与えたかということに、今になって多くのアメリカ人は愕然としているようだ。

 

アメリカ人の子どものうち、なんと5人に1人は貧困線以下(3人家族で年収が1万ドル強、日本円にして約110万円)の環境にいるという。乳幼児死亡率、予防接種率など、子どもの福祉のレベルを表す指標はどれをとっても先進工業国のなかで最低レベルだ。貧困層で最も多いのは離婚や未婚による母子家庭。2組に1組の夫婦が離婚するこの国では、専業主婦業は「リスキービジネス」であるとすら言われている。さらに、ミドルクラスの生活水準を維持するために共働きが必要だという現実がある。アメリカの保育行政は仕事と家庭の綱渡りのバランスをどうとっていくのかという問題以前に、子どもの貧困とその格差の問題をはらんで大きく揺れ動いているようだ。

 

『こども通信』Vol.9掲載(1993年11月30日発行)

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